答え合わせ

ただ単に先行研究を把握していないという不勉強ゆえであるが、あるテキストを読んでそれをある程度の方向性を持った一つの理解とした後で、同様に同じテキストを論じている人の理解を突き合わせてみるのは面白い。ただ、レポートを出してしまった後に私一人が赤面すれば済む話であるし、今後論ずる際は先行研究を引いて自らの論を展開する手間を省くことができるし、必要なら論を補強するために使える。
これは私自身昔からしている経験である。中学生の頃にジョン・ロック『市民政府二論』と『聖書』を読んでロックの思想の根幹に『聖書』とロック自身の信仰があること、そしてこれが何よりもロックの議論で最重要の問題であること、そして通俗的教科書的なホッブス・ロック・ルソーで語られるジョン・ロックの思想がいかにくだらなく皮相的であるのかを中学生のころ理解したしだいであるが、大学に入り研究書を読むとその線でロックの認識論、政治哲学等を読み解く研究があり、彼等の研究の限界が結局のところロックの信仰理解ひいては神学で取り扱うべき課題の理解がない故に行き詰まっていることを知った。無論大学に入る以前の私がジョン・ロック研究の一連の経緯と現在の研究の課題と限界など知る由もなかったが、ロックが問題としていた自由や公平そして彼の政治理論、それが仮に現在われわれが依拠する民主主義の一連の理論の基礎であるとするならば、それを理解する必要があり、それを理解するためにはどうしても神学に関しての学問的な訓練と知見が必要だと大学入学前の私は結論付けて神学を学ぶ、それもロックがピューリタンであるからプロテスタントの大学で学ぶのではなく彼が学問的に批判するところのスコラ学を教えるカトリックの大学でと考えた。無論そこには私の信仰理解を求めてという要素もあるが、純粋に学問的な必要“も”あって私は神学を学ぶことにした。残念ながらスコラ学は教わることができないが。それは兎も角として、私は自分自身のこのような経験があるために大学の所謂講義と言うものに興味を見いだせないのだ。もし学問的な類推の訓練がしたいのであれば、それこそロックの『市民政府論』と『聖書』それぞれをじっくり読むのが唯一の方法である。問題はそれぞれがどのような前提、方法を選択するかであり、教員にできるのはその点に関しての助言のみでありあとは学ぶ側の意志と理性に依存するしかない。端的に言ってあるテキストを何らかの前提、方法を選択して読めないのならばその人には学問が不可能だということだ。無論、あるテキストをそのような前提、方法を持って読んでみせるのが講義と言うならそれはそうだが、大学入る前に自力でやってしまった人間からしたら面倒なだけである。要するに私は一年の頭からゼミができないような大学は大学ではないと主張するだけである。
私自身の至らなさをすべて棚に上げて述べるのだが、天才と自身を思うことはないが、少なくとも秀才だと思う人間からするとどうも現在の大学は物足りなくてしかたがない。
そもそもウンザリするのだが、人文系であればどのような学問領域をやるにしろ必然的に大きな意味での神学と言う存在に対峙せざる得なくなるはずである。それをどのように受容するかは各人に任せるし、それをとに角言う筋合いはないのだが、これに配慮せずに学問などできるはずがなかろう。これに気づくのがどんなに早くても、そして運よく気づき、かつその対象に配慮しながら自身の関心や専攻を学んでいくかはまた別として、大学で学び始めてからだというのは遅すぎるように思う。
私が何よりも我慢がならないのが、神学が知的なゲットーに甘んじていることである。否定されるにしろ、批判されるにしろ、学問の根幹を成す一学科を軽視する態度が我慢ならない。遠藤周作現代日本文学をして魂の領域を描けておらず、“自身の作品を除き”その点で不満を感じると述べるが、私は同様の趣旨の発言を日本の人文系の学問に対して行ないたい、端的に言って形而上学つまりは魂への探究のない学問など学問と呼ぶには値しない。それがどのような分野であっても学問をやるものは皆哲学、それは当然形而上学をも含むを持たねばならないし探究せねばならない。皆こう言うだろう時間が足りないと、だから言うのだ大学から学ぶのでは遅いと!