神父と語る村上春樹 メタフィジック批評こと創め

  • 問題はやはりそこから

さて、村上春樹氏がエルサレム文学賞とやらを受賞したそうである。この点について幾つか論じてみようと思う。と言っても私は村上春樹の作品を一度として一ページとして読まないので彼の作品を論ずるわけにはいかない。ただ、この点について多くの人が論ずることを「文学と道徳」つまりモラルの問題として論じてみるだけである。私は二つの点から書かなければならない。まずモラルと言う観点からとそして文学と言う観点から、そして最終的に両者の関係を論ずることとなる。

  • 立場と党派性

まずもって論ずる対象ではなく私の立ち居地、党派性について言及しておきたいと思う。私の立つ位置はカトリシズムであり、信仰に立脚する立場に立つ。ここで明言するのは明言しなくともおのずとそのようになってしまうからであり、ここで言及したのは良きにしろ悪しきにしろ私がこの立場に立つことで他の人にとって議論が見えやすくなることを期待してである。

さて、私は上記の宣言によって以後の論考において自身をカトリック批評家と位置づけ、自己理解をしたいと思う。自ずからと同様の道を歩んだ先達に倣う必用があると思うので幾人かの名前を挙げておきたいと思う。まず遠藤周作である。彼は小説家としてではなく批評家として創作活動を始めた人物であり彼の論考には現在でも見るべき点が多々あるように感じる。次いで、武田友寿である。遠藤が小説家としての活動を本格化させる中、遠藤の批評活動を引き継いだのが彼である。武田氏の批評は遠藤を論じたものしかまだ私は読まないが、その論考中で遠藤の批評家としての問題意識を最も適切に汲んでいると私には思われる。さて、兎も角としてこの二名に引き続き、カトリシズムの立場からつまりは副題にある“メタフィジック批評”を私も試みてみたいと思う。

  • 1 ハルキストと青春

 さて、上で少し述べたように私の青年期のと言うか、いつまでを青年期と呼ぶべきかが不明であるが、中高の読書の中心は文学ではなかった。中心でなかったと述べると誤解を招きそうなのではっきりと述べておくと大衆小説から古典まで私は古今の小説、文学と呼ばれるものを一応に蔑視軽視し嫌っていた。遠慮なく述べるが、皆平等にである。先ほど『聖書』を熱心に読んだと自分が述べているではないかと言われると確かにそうであると答えるしだいであるが、まず重要な点を先に指摘するが『聖書』は啓典であって断じて文学作品でもなければ、古文書でもない、これは主張しておきたいと思う。無論これを文学の理論と方法で読もうが、文学作品として読もうが、歴史的な古文書として読もうがそれはとがめないし、好きにすればよろしいが、よく考えて頂きたいのだが、『今晩の料理』なる料理本を文学作品としていや、機械の取扱い説明書として読む人がいるだろうか?と私は疑問に思うからこのように述べるだけである。それは兎も角として、私が青年期に熱心に読んだのは、古典であれば先ほども挙げたジョン・ロックの『市民政府二論』やマルクスの『資本論』、クラウゼヴィッツの『戦争論』、孫子の『兵法』などどう見ても政治色の強いものであり、所謂暴力と統治、もう少しやんわりと述べるなら平和の問題に根本のところで興味があったと言うことである。無論これは私の生まれと育ちに大きく影響されることであるし、それについては長く述べないが広島で生まれ育ったと言うことと親類に被爆者が多くいたというのが非常に大きな問題としてある。と同時に広島で見られるようなリベラル的なもっと述べるなら左翼的な平和運動やそこでなされる暴力や統治に対しての理解に辟易としていたこともそのような読書に向わせた大きな要因であると思う。右派であるか左派であるかは兎も角として私は物事を現実的に、空想的にならずに対峙し理解する必用があるとはかねがね考えていた。それ故に当時の私にはフィクションの世界に耽溺するように(当時は思えた)文学作品を熱心に読むと言うのは我慢のならない行為であった。
 であるが、私の同級生や友人たちが文学を熱心に読まなかったのかと問われると答えは否である。私の学んだ学校は在校生の2/3ちかくの学生が進路として理系を選択する(高一の終わりに文系か理系かを選択する。なお著者は中学入学当初から進路の選択まで理系に興味があったし、友人も理系の友人のほうが多い)学校であった。つまり四クラスあったうち、一クラスだけが文系の学生と言うことになる。理系の友人方はそれ程熱心に読書をしていたようには残念ながら見えない。私の友人の一人など、在学中にとんと図書室を利用しないと言う輩までいた。であるが、文系の学生の、今思えばごく一部のように思うがは熱心にそれこそ村上春樹含め読んでいた。なお、私の同級生の一部は長らく休止(恐らく)していた文芸部を立ち上げなおし、熱心に文芸誌を作っていた。私はその文芸誌に書きはしなかったが、毎号購入したし、熱心な読者といえばそうであった。一度文章を書いてみないかといわれたこともあったが、結局書くことはなかった。ただ、どうも私の当時の関心は上記の通り、文学と言うより社会や政治に関心が向いていたのであって創作と言う活動にコミットするだけの動機付けがなかった。
 であるが当時の私が人文系の学問を学ぶなどと言うのは全く想像できなかったし、想定もしていなかった。まして、神学なる学問があるなど現在も同じイエズス会の学校で学んでいるが、知りもしなかった。ただ、当時の私の問題意識は上記で述べたように政治学が扱うような領域とともに、現在もそれこそ問題となっている宗教間の対立それ自体と宗教の説く道徳性(いやと言うほど授業の倫理で語られた)とその暴力性、しかも愛を説く宗教自体が原因と言われる、との問題、後兎も角、その宗教つまりは一神教であり、啓示宗教であるところのものとそうではない日本との間の問題、なお書き漏らしていたが、当時夏目漱石の小説は一切読まなかったが夏目漱石の評論は熱心に読んだし、その問題意識は今でも私の重要な問題である。つまるところ西洋と東洋と言う問題が課題であった。
 さてこのような問題意識から出る疑問を散々週一回放課後の聖書の勉強会で実に遠慮がちに神父に尋ねるのが、幸か不幸か高校一年からその勉強会は私と神父の二人だけで行なった、私の唯一の知的な息抜きであった。勉強会で教わった神父は化学の授業を担当していた。私も彼の化学の授業を中学生の頃に受けたし、非常に楽しいものであった。勉強会において彼から受けた一番の影響は科学哲学と呼ばれる(無論当時は科学哲学なる領域を明確に理解していたわけでも意識していたわけでもない)問題点について信仰と自然理性について話すことができた点である。勉強会では主に聖書にそって信仰について、またアウシュヴィッツの問題やライ病の隔離についてや貧困についてなど道徳的、社会正義についてが主に話題となった。私が彼から影響を受けた科学哲学は彼が信仰者、勿論神父であるのだから!でありかつ化学を学校で教え大学でも自然科学を学んだ故のオプションと言うかおまけ、これは贅沢なおまけであると思うが、であって神父として話すべき、ないしは話したかったことはやはり信仰と道徳の二点であったと思う。
 ここで長々と述べた次第は私がメタフィジック、形而上学批評などと述べる前提来歴には政治的な問題や文化的な問題、つまり個別、具体の事象があるということを強調したかったからである。最近の私はこれら最初期の問題意識から遠い、遠いが確実につながっている!問題にまで来ているため私を初めから観念的、思弁的、純粋理性で扱うような問題意識を持っていたと誤解を受けたくないからである。と同時に当時の私が感じていた信仰のフィクション性と虚構性つまりは当時の私は小説、文学が全くの虚構作り話であると同じように信仰と言う生き方は虚構の中に埋没し生きることであり、現実からの逃避であると言う考えが誤ったものであると自身の経験を踏まえ明らかにしたいと幾らか本論とは余計で無関係ではないがわき道の欲求を持つからである。

  • 美と善の問題

端的に渦中の(はてなダイアリーと言うコップの中の)問題を極めて抽象的に開き直って上から論じ始めるならば、“美”と“善”の混同に求めることができる。

      • “美と善の問題” 予備的考察として ジャック・マリタン『芸術家の責任』より

 ここからは美と善との問題を考えるにあたっての予備的考察として新トマス主義の哲学、神学者のジャック・マリタンの『芸術家の責任』を読んでいく。
マリタンは哲学者として本書の目的、対象、方法を次のように述べる。
 本書においては「詩人であれ小説家であれ、創造的芸術に身を挺している人間の内面においては、詩作すなわち知的創作上の要請と、人間が自由意志を正しく行使することについての倫理規範上の要請とは、どのようにかかわってくるのか。他者に対して、またおのれ自身に対して、芸術家の果すべき道義的責任とはいかなるものであろうか。作品の完成に力をつくす一方で、おのれの魂の完成にもまた芸術家は力をつくす責務があるのであろうか。そしてそれは可能なのであろうか。」といった詩人や芸術家の仕事そのもののなかで提起される問題を「芸術の倫理学」として倫理学の観点から論ずる。
 これらの問題は<芸術>か<倫理学>かのいずれか一方のみで済まされる問題ではなく、これら両方の領域を論ずる必要からこの上もない紛糾につきまとわれるものである。そして哲学者として問題に取り組む際には倫理生活の尊厳および責務と芸術や詩作の尊厳および自由とのいずれをも当然考慮しなければならないと述べる。
 緒言で示された問題意識とこの問題に取り組む際に注意しなければならない幾つかの点はこれから問題に取り組む私たちにとって大きな助けとなるものです。現に問題は紛糾しているのです。と同時にこれらの問題自体を俯瞰的に整理して論ずる向きは未だに現われてもいません。

<芸術>と<倫理>

 マリタンは第一章「芸術と倫理」においてまず<芸術>と<倫理>がどのような関係性にあるのか、それはつまりそれぞれの領域が関係をもつものの自律性を持った独自の領域であると述べます。
 そしてマリタンが強調するのは「本性的に別物であってそれぞれ自律的な世界を構成し、内的で直接的な従属関係がない」<芸術>と<倫理>それぞれの領域が「人間という統一ある主体のなかでこそ」その自律的な世界を構成するという事実である。
 ここで勘違いしてはならないのが、マリタンが<芸術>と<倫理>の外的で間接的な従属関係を認めている点である。そしてこの外的で間接的な関係は「芸術家が責任などというものを完全に免れるべきだと主張する無政府主義的な要求と、芸術家が徹底した御用芸術家であるべきだと主張する全体主義的な要求」この双方によって無視されてしまうとも述べる。
 ここまでの主張を整理する。まず本性的に<芸術>と<倫理>はそれぞれ別物であり自律的な世界である。それらの領域の間には直接的で内的な従属関係はない。そして<芸術>も<倫理>も自律した世界として成立しているのは人間という統一ある主体のなかにおいてである。人間のなかにおいて存在するそれぞれの領域も外的、間接的には従属関係をもつ。そしてそれぞれの世界の自律が事実であるようにこの外的で間接的な従属関係も同様に事実である。この従属関係は両極端な二つの意見、無政府主義的な考えと全体主義的な考えにより無視されてしまう。

<芸術>

 さて続いてマリタンは「<芸術>と<倫理>」の“関係性”の概要を論じた後に<芸術>の問題を論ずる。私は以下においてマリタンの議論を追っていくが次の点を読者に述べておきたい。マリタンはアリストテレス、そして何よりもトマスの影響を強く受け思索する人物であり彼の議論や方法に多くの点で新鮮さよりも違和感を感ずる人のほうが多いと思う。私自身はあまり感じないのであるが安心して頂きたい。マリタンから芸術論、そして批評の糧を得た遠藤周作もマリタンのトマス的思弁に悪戦苦闘した人物の一人であるからである。マリタンの議論の問題点を指摘するのは兎も角もっと後にして、この交錯して混沌とした問題を兎も角整理するための道具としてはマリタンの明瞭な、取り様によっては血も涙もない無味な思索が有益であると私は信じる。
 まずマリタンは<芸術>の領域を論ずるにあたり次のことを確認する。つまりマリタンはアリストテレストマス・アクィナスの理解を下敷きとして「芸術家の魂のなかにある創作の力の働きとしての<芸術>」を問題としていく。ではこの“芸術家の魂のなかにある創作の力の働き”とはなんなのか。この力は或る特殊なエネルギーまたは生命力として、それだけをとりだしてそれ自身の本性に即して考察すべきものであるかもしれないが、ここで問題となるのは“働き”の部分である。この力は人のなかにあるものであり、人はこの力に助けられてよい“作品”をつくりあげる。マリタンはアリストテレストマス・アクィナスがこの力を徳、つまり内面において確立される力のひとつとして捉え、それは<実践知性>の一つであり、つくられるべき作品をつくりだすことにかかわる特定の徳として理解しているとし、彼らが同じ<実践知性>の徳のひとつである<賢慮>と対比的に考えていたことを強調する。
 アリストテレストマス・アクィナスは同じ<実践知性>の徳である<芸術>と<賢慮>を対比して、<芸術>を人間の善ではなく作品の善にかかわるものと理解している。つまり<芸術>が追求する善は人間の意志の善ではなく、芸術作品の善である。
マリタンは『神学大全』第57問から次のような引用をする。
 「芸術の追求する善は、人間の意志または欲求能力の善(すなわち人間の善)ではなく、つくりだされた作品の善である。それゆえ芸術は、(人間の善に即した)正しい欲求を前提とするのではない」
 ここでアリストテレストマス・アクィナスにより示された観点をマリタンは私達がいま取り組もうとしている<芸術>と<倫理>という問題のかなめとなる基本原則の一つであると述べる。ただ、マリタンはこの原則を理解し適用するにあたっては色々と補正が必要であり、倫理の領域に属するまた別の基本原則によって裏打ちされねばならないと述べる。そしてこの補完は芸術家が<芸術>それ自体ではなく、プラトン的な天上界からくだってくる<芸術>体現者でもないひとりの人間であって、<芸術>の技に助けられているという事実に対する理解が必要であると述べる。
 そしてマリタンは続いて次のことを主張する。芸術家がめざす作品の善とは美のことであり、芸術家とは美という絶対者におのれの霊と肉のすべてを捧げ尽くしてその絶対者を愛せずにはいられないような絶対的な愛のとりこになった者である。
 さて以上の議論をまとめると次のようになる。<芸術>それ自体がめざしているのは作品の善であって人間の善ではなく、芸術家はまず第一におのれの作品に対して責任を負うのである。そして<芸術>の超越的な目的は<美>であって、その<美>とは中途半端なかかわりは一切許容しない一種の絶対者である。

<倫理>

 ここからは<芸術>の領域から<倫理>の領域へと論ずる対象が移行します。
 マリタンは倫理の領域の基底をなすものを“倫理善”という概念に求めます。ここで述べる“倫理善”とは形而上学的、存在論的に議論される超越概念としての善とは異なったものです。倫理善とは人間の品性・生きかた・意志の働きについて特に言われる種類の善であって、この倫理善が人を端的によき人たらしめる。
 では、一人の人間を端的に“よき”人たらしめる決定要因とは何であろうか。
 人を端的に善き人たらしめる善は、人が行いによっておのれの欲する所を明らかにする、その行いの善であり、つまりは、人をして人たらしめる行い、おのれを律しおのれの運命をのりこえる人格存在であり自由行為の主体である人間に発する行いの善である。
 ここで疑問に感じるのが“人間が自由意志を持つ存在である”と言うのは真か偽かという問題です。この問いの真偽についてはしばしば保留するとして、人間の自由意志と言う本質ゆえに倫理という問題領域が生じるとマリタンは述べます。
 もしも人間の行動が単なる自然のできごとであり、世界をめぐる因果の、あらかじめ定まった動きの一環にしかすぎないとしたら、自然の領域のみが存在し、道義もしくは倫理の領域は存在しないことになってしまう。そうでないとするならば、つまり世界には自由な決定に基づく人間の行動が存在するのであるから、自らの行いの責任者として行いの善悪を行動主体が問われるのである。この行動は、いたる所に張りめぐらされた因果関係の働きに還元しえない自発性に基づき、因果関係とは全く別に、おのれ自身・おのれの人格・おのれの責任において自発的に行なわれるものである。
 次いでマリタンは行いのどのような在り方が、行いを善き行いたらしめのであろうかと問います。マリタンはまず<善>とは存在が全き存在として在るということを意味しており、全き存在たりうるには、おのれの本性が要求する形を与えられなければならないと述べます。
 ここでわれわれが問題としている<倫理善>とは“人間の行動”が本性的に要求する形のことを意味しています、では人間の行動が本性的に要求するものとはなんでしょうか。
 マリタンは人間が理性的動物であり、人間の行いは人間の本性が要求するものが理性であるのだから、その行動は理性の形によって全き存在となると述べます。つまり、人の行いが端的に倫理的に善いということは、その行いが理性によって形を与えられ、理性にかなっているということであり、理性との一致あるいは協和、すなわち人を人たらしめるものとの一致こそが、人の行いを善き行いたらしめるのです。
  
 ここでは多くの読者が引っかかり、躓きを覚えるのではないでしょうか?私も無論その一人です。マリタンの議論はあまりに多くをアリストテレスの哲学、それは多くの場合トマスを介して受容されたスコラ学に負っています。我々は素直に世界の律に厳然と一個人の意志を対峙さすことに疑問を感じますし、人間を無邪気に理性的動物だと定義することにも疑問を感じます、この点を安直にこれだから西洋的な理性主義、人間中心主義は!と嫌ってしまうのはいい加減やめにしましょう。