カトリックに於ける人間理解

 カトリックの信仰において人間がどのような位置にあり、またその人間をいかに理解するかについて考察をおこなうこととする。
 “カトリックの人間観”というフレーズがまず意識されるのは教育現場においてである。幼稚園に始まり大学に至るまでのミッションスクール*1においては信仰の光に照らされての人間観、世界観に基づく教育が行われると教育当事者たちが明言している。信仰を理解する際、これは信仰者、求道者にとっても信仰の光に照らされての人間観の理解は不可欠のものであるが、これは個人的な事柄のみならず、教育、社会事業を信仰に基づき行なう法人(文字通り一つの人格として)を理解する際にも欠くことのできない視点である。
 今回は教育の場での人格教育にも触れながらカトリックの人間観についての考察をおこなう。このことは、カトリックの信徒が1%にも満たないにもかかわらず教育活動において多くの人がカトリックの信仰理解に触れているという事実を見逃すことができないからである。また、こと戦後教育に関して考察する場合においてもカトリックの信仰理解における人間観を考察することは欠くことのできない視点である。なぜなら、教育基本法(改定前)の制定に大きく関与した南原繁、田中耕太郎の人間理解、またその人間理解に基づく教育観とは信仰の理解なしには成立しないものであるからである。今回は田中の人間観、教育観を中心として一般の公教育においてカトリックの信仰理解に基づく人間教育が展開可能であったのか?また展開すべきものであったのか?を合わせて考察する。

  • 考察対象:カトリックの人間観 教育観 旧教育基本法および公教育における人格主義の展開
  • 方法:教育学による方法論は採用しない(経験科学特に教育心理学
  • キーワード:「田中耕太郎」「人格」「教育基本法」「カトリシズム」「ジャック・マリタン」「ミッションスクール」「キリスト教的教育」

何故に人間から問い始める必要があるのか

 まず初めになぜ“人間”から問い始めなければならないかである。第一に、特にこれは啓示に関連してであるが、われわれにとって聖母マリアを介して受肉した救い主、つまり人として十字架上で苦しみを受け葬られ、黄泉に降り、三日の後に復活したイエス・キリストが問題となるからである。次いで、われわれ自身が人間であるからである。ここで問わねばならないのはわれわれ自身の自己規定に関してである。われわれはわれわれ自身をどのようなものである(存在)と理解するのか(認識)が問題となる。続いて、われわれと人となられた神との関係が考察されなければならない。最後にわれわれの間柄、つまり人間相互の関係性が問題とされる。それは社会を考察することと同義である。まとめると以下のようになる。

  1. 神、特に御子であるところのイエス・キリストについての考察
  2. 人、被造物であり、他の被造物中での特別性、原罪についての考察
  3. 神―人の関係性について、神の愛についての考察
  4. 人―人の関係性について、隣人愛についての考察

小考察における指針

 上記で触れたようにわが国おいてカトリックの信仰者は1%に満たない。また文化、風土における素地においてもカトリックの要素が乏しい。故に如何なる対象を、如何なる方法で論ずる場合にあっても啓示において示される事柄の理解を求めるには多大な労力が必要となる。故に本来論ずるべき事柄ではなく、その前提となる事柄に多くの筆を割かねばならず、議論が進まなくなってしまう。必然的に個別の事象を論ずる前に予備的考察と論考が必要とされる。

予備的考察の範囲と性格

 ここで必要とされる予備的考察は神学の一分野としての基礎神学 fundamental theologyである。こと必要とされるのは啓示がどのような位置に置かれるか、啓示により導かれる信仰がどのようなものであるか、信仰より導かれる諸々の知見、生きかた、行為はいかなるものであるか…諸々の分野、組織神学や実践神学へと展開するための基礎であり、初歩的な知見を整理、提供するのが基礎神学の役割である。基礎神学は“神学”であるからには啓示に基いて/下の思弁ではあるが、スコラ学つまりは信仰に基礎づけられ、また信仰を基礎づけるところの哲学によって論ずるものであるから、自然理性を方法とするものである。つまり、基礎神学は啓示より与えられた物事を自然理性によって論ずる領域である。なお、信心を持たない人に可能な神学の領域は唯一基礎神学のみであり、かつ信心を持たない人が学んで意味のある領域も基礎神学のみである。なぜなら、組織神学や実践神学においては啓示は問う対象ではなく問う際の前提へと姿を変えるからである。
 また、信仰者にとって基礎神学の与える知見や基礎神学自体の基礎となる問いの多くが有益である。なぜなら、基礎神学は信仰と理性の調和と緊張に貫かれた思弁であり、この緊張は信仰者が度々直面するものであり、この緊張に対して調和を求めるのもまた信仰者の常であるからである。
 であるからして、教導者にとっても基礎神学の知見や問いは必要不可欠である。信者を導き、直面する様々な困難をのり越えるための知的、霊的な助言を司牧の際には行なわなければならない以上これらの知見や問いに教導者は精通している必要がある。また、この領域の知見が自然理性に基づく以上、求道者に信じる事柄の理解を促し、またわれわれの信仰や教会自体に対しての問いに対して答え、理解を他の人々に求める際にも必要とされるからである。