さて、続き 要理教育について

 http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20090205/1233814687
付箋が切れてしまったのであわてて買いに出かけた。外は寒くてかなわない。さて、前回の続きを前回の復習から始めたいと思う。
 前回私は「カトリック新教会法典」の『神の民』に関する部分を取り上げながら、まずもって信徒として神について学ぶことがどのような位置にあるのか論じていきました。うまく行なえたかには疑問が残りますが、強調をしておきたかったのは、神について学ぶことはまずもって洗礼に由来する、つまり信徒であれば皆必然的に行なうものであるという点であり、また“聖なる学問”つまりは神学とは聖務者に固有の事柄ではないと強調しておきたかったのです。 
 と同時に何故要理教育について話すに当たって「カトリック教会のカテキズム」より始めずに教会法から論じ始めたのかその意図について書いておきたいと思います。  
私は要理教育について論じ始める際に次のような問題が生じるとして論ずることとしました。

さて、これは神学を学問として学ぶにしろ、教義を信仰の為に学ぶにしろつきまとう問題ですが、そもそも誰が、どのような事柄を、どのような方法で教えるのか?と言う問題が出てきます。

 私がまず論ずる必要があったのが、“誰が?”の部分に関してです。そしてまず初めに教会法を取り上げ、学ぶにしろ、教えるにしろその行為主体である私達がどのような位置にいるのかを信徒と言う視点からはっきりとさせておきたいと考えたからです。それは取りも直さずこれからこの論考を行なう私自身を明らかにするものでもあります。つまり、洗礼により教会に結ばれ、信徒として大学における“聖なる学問”つまり神学を学んでいるということを意味します。ですから、まず初めに私は私が信徒としてまた神学を学び始めた人間として公において意見を記す際に私が従うべき基準を皆様に明らかにしておきたいと考えたからです。それは何より以前記したように、あくまで一信徒という立ち位置からの私の思索がいくらかでも信仰を同じくする他の人々の益となることを願ってやまないし、この点の配慮を忘れての思索をおこなわないよう注意深く進めて行きたいという思いからです。
 これはインターネット上でもそうですし、それはカトリックに関わらずですが、議論が益をもたらすよりも害をもたらす様を何度となく目にしてきました。これは多くの場合、論者が自らの立場とその立場ゆえに自ら自身が従わなければならない律を公に明らかにしないが為に起こる問題であると考えます。ですから、私はこの論考を始めるにあたり署名し、手短に自らの立場と自らがどのような者であるか明らかにしたつもりです。ついで私は私自身が従う律について手短にですが(長いですがなるだけ手短に論じたつもりです)明らかにしておきました。
 ですので、私自身の明らかにした律に反するようであれば忠告なり、助言をしてくださればと思います。この場合問題となるのは私の提示した律に私自身が従えているか、否かであり、私の提示した律自身に誤りや議論があるのであればそれに対しても応じて行きたいと思います。ただ、理解を求めたいのは私が私自身の信仰に従うが故に導かれる律ですので、律自体を論ずるということは私の信仰の立場自体を論ずることとなります。
 以後はまず第一に啓示ゆえに導かれる知見に基づいて論じていくつもりです。つまり信仰が前提となっての論考となります。信仰自体が対象となる論考は自然理性が前提となりますが、これはまた別の機会に行ないたいと思います。
 ここではあくまで洗礼により教会に結ばれた神の民として考察を進めましたが、私たちは信仰に生きる神の民であると同時に現在の世界で生きる人間でもあります。ここからは現代の日本社会で生きるという側面から行為主体の考察を進めていきます。