先に

ヨハネ・パウロ二世の回勅「信仰と理性」とベネディクト16世の「レーゲンスブルク大学での講義」を扱うべきかも知れない。というか、もう私は啓示を前提として話すとした以上、党派的であるとか、主観的であるとか言う批判は受けるし、むしろ進んで受けようとするけど、もうね、だから何?という話である。
他の学問のことなど知らないけど、それぞれの学問はそれぞれの学問としての前提と方法と対象を持ち、ある程度のお作法とでも呼ぶべきものがあるのは理解しているつもり(確かにつもりなだけなのかもしれない)、神学だって党派的だなんだといわれようと、他の学問と同じように前提も方法も対象もあるしお作法だってある。だから、少し前までのエントリではなるだけ私が今後考えて書いていく上で従うべきルールについて考察して書いたつもり。
馬鹿にされようがなんだろうが、私だって一つの学問に骨を埋める覚悟をしたつもりなのだからそれに対してプライドは持つし、情けなかろうがなんだろうが先行研究だって拾っていく。
もし仮に私が神学を捨てるとするならそれは私が信仰を捨てるときか、死ぬときだけである。笑うなら笑うでかまわんさ、ユーモアは大事だもの。