フランシス・スアレスについて

id:contractioさんが「わたし、スアレスの研究書って これ↑一冊しか持ってないんですが、その後 邦語文献は出てないんでしょうかね。>識者」(http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090217)と嘆いておられるので識者じゃないけど答えてみる。

 研究書として公刊されているのはcontractioさんも紹介している、田口敬子『スアレス形而上学の研究』あとは私のブログで以前紹介したホセ・ヨンパルト『人民思想の原典とその展開』*1あとは、伊藤不二男『スアレス国際法理論』ぐらいでしょうか・・・・あと最近のものでは半澤考磨『ヨーロッパ思想史のなかの自由』でスアレスの思想に触れられていました。*2

 ご存知の方はご存知とは思いますが、フランシス・スアレス(Francisco Suarez)はイエズス会神学者です。もとより私は民主主義やらへの興味から神学を学ぼうと思っていたので必然的に自然法の問題にたどり着き、容易にスアレスについて“名前”だけは知ることになりました。でも、ここからが大変、なにが大変って、イエズス会のご当人方にことあるたびにスアレスを中心に自然法や公共善についての倫理学がやりたいと言うのに全くもって反応が芳しくない。そもそも私はスアレス流〔主知主義主意主義の折衷〕であろうとトマス主義のものであろうとスコラ学があるだろうから神学部を選んだというのにやってることと言えばくだらないクズみたいな神学ばかりで心底落胆した。
 なので悪戦苦闘しながら個人的に頑張っていると言うのに・・・覚えてろよ、卒論はおろか博論までお前らを吊るすことしか考えてないからな。50年分の怠慢と怠惰を悔いろ!
 何故にスアレスの研究が放置されてきたのかを考えてみたのですが、戦前においてスコラ学、つまりそれは神学の基礎哲学としての側面と中世思想、中世哲学との二つの側面をもつものですが、スコラ学を受容し展開してきた主な人物は岩下壮一師と吉満義彦氏の両名です。無論戦後も吉満のお弟子さんたちがトマスを中心としたスコラ学を学会を設立して展開していましたし、上智大学の中世思想研究所はその流れの下流に当然位置しています。ご存知の通りリーゼンフーバー師を中心に中世哲学、中世思想の研究は十分な質、量の研究がなされていたのですが、神学の基礎哲学としての側面は戦後すぐに消えてしまいます。情けのない話ですが・・・ちなみに上智の中哲研以外では京都にあるドミニコ会の聖トマス学院の影響を受けての流れもあります。京大の中世哲学研究はこの辺からです。
 中世哲学にしろこれはスアレスの哲学にしてもそうですが、それを対象としての個別的な研究も非常に大事なものですが、それがいかに現在と関わるのか、特にスアレスの場合続く近世期の哲学に大きな影響を与えている点をどのように考えるべきかが問題となります。残念ながら現在、近世期の哲学を中世期のスコラ学との連続として捉える研究が乏しいように思います。
 哲学の研究として乏しいと言う面もあるのですが、神学の側面からもスコラ学を取り上げての思索が乏しくなっています。吉満義彦はデカルトパスカルを中心として近代を捉えなおすにあたっては中世と近代との交点である近世期の思想を丁寧に掘り下げなくてはならないと述べていますが、この流れを引き継いでの視点が現在カトリック教会の中に乏しいように思われます。例外的にこの視点から努力している代表としては稲垣良典氏があるかとは思いますが・・・神学的な視座を持つ人自体が少ないのでなんとも心もとない。
 ポスト・モダンと呼ばれる時代思潮において、ただ暗中模索するのも一つのあり方とも思いますが、そもそも近代と呼ばれていたないし、呼ぶものがどのように成立したのか丁寧に追いながらあらためて考える、そのための材料を提供する側面からもスアレス含めの研究がなされる意義は十分存在していると私は考えます。
 ・・・・なのですが、どうも自分のところの秀才博士であるスアレスの意義を認めるイエズス会士に私は今のところ会った事がない。なので、今後公刊される研究は私がやるか、私以外の奇特な方が私が認めるような意義か意味かはわかりませんが、意味を見いだしてやらない限りはないと思います。
 スアレスの研究は田口氏のように形而上学的側面からのものと伊藤氏のように自然法論の側面、あとやる人がいませんが神学的側面と三つの側面があるかとは思いますが、私の知る限りでは、神学的側面は今後10年はでそうになく(要するに私がやるかやらないかの問題)形而上学的側面も残念ながら同様の研究をしようとするとトマスに集中しており、スアレスは出そうにない。一番期待の持てる自然法論の側面ですが、九州大学の研究は水波、阿南両氏が亡くなった後に研究を引き継ぐ方がいなかったのかまとまった研究がありません。*3現在自然法論の研究を中心に行なってるのは南山大学が唯一です。*4
 何が言いたいかというと、いい加減学部の一年頭から頭に来てるこの怠慢を誰も正さずにこの50年近く放置し続けた上智大学の神学部の意味ってなんなわけ?!ということ。いつまでも、海外の研究者(しかもどうしようもなくしょぼい。ラーナーだなんだと)の翻訳して、それをまとめるだけのしょぼい研究もどきをして、たまに独自性を出したかと思えば、正月に教会の前に門松おいてインカルチュレーションですと言うようなド阿呆な神学をやってお茶を濁すだけ。何を博士課程までお勉強してきたんだか(お勉強してきたからまずいの!研究しろ馬鹿たれが)
 で、日本の現状はどうかと言うと酷い有様で、解決したり、神学的知見で助言と励ましのできる、否、やるべき自体がそこいらに転がってるにその現状を見ようとしない。文字通り役立たずである。
 教会の実践の学としても不徹底であるし、学として他の学問領域に貢献しようともしないし、ド阿呆だからそもそもできない。ほんとにアホである。
 ほんと、解放の神学とか、フェミニスト神学とかしょうもないものをいちいちカトリック神学者が本腰いれてやる必要はない。そんなもの放っておいても“進歩的な”プロテスタント神学者がやるだろうから、私らは私らのなすべき仕事をこなすべきです。
 ほんとウンザリするときがある。やり残しの仕事が多すぎる。
 スアレスについてのはずなのに結局いつもの愚痴になってる。orz

*1:目次を引用しているので参考までにhttp://d.hatena.ne.jp/CanDy/20080710/1215645565

*2:http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20080710/1215642184

*3:自然法の研究』参照

*4:『南山神学』参照