近頃気になる事柄

 カトリック関係の事柄で最近気になることについて。

  1. 裁判員制度について(http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/090618.htm
  2. カトリック学校教員養成のための塾について(http://www.cwjpn.com/cwjpn/article/index.htm
  3. 司祭年について(http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/2009/year_priests.htm

一番初めの問題から、裁判員制度については気になってはいましたが、上記の問題についてはリンク先に書いてあることの以上でも以下でもないかと思う。当たり前の判断をしただけではないか?
あとweb上の記事ではあまり問題にされてないけど、リンク先に書かれている信徒から司祭に裁判員制度について相談することは教会法上の根拠を持つという部分のほうが司祭や修道者が裁判員を辞退することよりも重要ではないかと思う。
私も疑問に思っていたのが、告解の秘蹟の際に司祭に必要最低限に限るとしても裁判員として知りえた事柄を話すのが適法か否か?であったので信徒は安心して告解の秘蹟含め司祭に相談してもかまわないと明言されたことは一“信徒”として歓迎したいし、感謝したい。

次に二番目の問題について、リンク先のカトリック新聞の記事にあるようにカトリック校の教職員向けの活動が始められたようです。(http://www.youseijuku.org
この点については「カトリック教育研究*1」25号掲載の座談会で提案されていたのであまり新鮮味はないというか、今さらかという気持ちとようやくかという気持ちがない交ぜなのですが、ぜひとも必要なことだとは思うので教職希望の学生などはぜひとも参考にされるとよいのではないかと思います。
ですが、二、三、小言を述べると教員の養成はよいとしてもその基礎としてカトリック教育自体に対しての研究が同時に活発になされないなら結局のところ尻切れトンボで終わってしまうのではなかろうかと心配になります。

最後に、司祭年について、パウロ年に引き続いて司祭年が始まります。司祭年が始まったからといってすぐに司祭や叙階、司祭職への召命を考えるのはいささか短絡的すぎないか、と正直のところ思う。これは以前からそうなのですが、司祭の召命を考えるときになぜにそれ独立で考えるのかが正直のところ理解できないし、手際が悪いと感じてきた。まず第一に教会に、イエスに結ばれるところの、つまり信仰生活の端的な始まりとしての洗礼の秘蹟の意味合いが見直されなければならないのではないかと思う。
これは司祭職、また修道者の召命と信徒使徒職の召命を考える場合に共通して考えられなければならないことだと思う。確かに司祭職や修道者への召命は特殊であるかも知れないけれど、それはキリストに倣い、従って歩んでいく延長上にあると思う。(この辺についてはそういう道を歩んでる人、ないし歩んだ人(過去の人)にたずねるのが適当だとは思うけれど、修道者や司祭を見ていて私が感じる範囲ではこのように思う。)
仮に司祭職や修道者について考えるにしろ、キリスト者としての歩み、つまるところ洗礼の秘蹟によって始まる歩み(無論、洗礼以前にも神は、つまり聖霊であれ、御子であれ、創造主であれは共に歩んではいるけれど、ここで洗礼の秘蹟によって強調されるのはやはり教会とのつながり、これは見える制度としての教会とキリストの体としての教会の二側面から)がまず黙想されるべきではなかろうか。そこから始める限り、ないしはそこから始まる以上、つまり教会とのつながりから始まるがゆえに教会の皆が一致して司祭について、特に新たな司祭の召命について祈れると思うのだけど。
これは取りも直さず、司祭について祈り、考えるとき(つまり黙想するとき)立場がどうあれ(この場合は特に信徒を問題にしたいけれど)自身の信仰の歩みを考え直すよい機会になると思う。
要するにこういうこと。一信徒として司祭の新たな召命を祈るということは、つまるところ自身の信仰生活の振り返りであり、自身の召命についてあらためて祈ることでもあるのではないか、と言いたい。(相変わらず結論が後で申し訳ない)
なんだか、諸々の機会に感じていた違和感というか、思いというか・・・司祭に関して云々というのは取りも直さず信徒であっても自身の召命について考えることなんじゃないかと思っていたし、どうも司祭と信徒の協力がうまくいくためには結局のところ共通の召しだし、呼びかけのところから一緒に考えるのが必要不可欠ではないかと思っていたのでぐだぐだ書いてみた。

<<どうでもよい追記>>

 召しだしとか召命というのはvocationの訳語です。教会内でしか通用しない用語なので私“も”あまり好きな用語ではありません。Vocation自体がいやなのではなく一般に通じにくいジャーゴンとしての用語が嫌いなだけです。あと、訳の由来は知らないのですが、召“命”は正直のところ少し違和感があるというか・・・個人的な見解としては神から名前を呼ばれるというようなニュアンスではないかと思うので私は召“名”と訳したほうがよいのではないかと思う。サムエルにしてもそうだけれど神に対峙し、名前を呼ばれるわけだから、こちらのニュアンスの方が私は好きです。
 これは余計なおせっかいであるとか、他の宗教に帰依している人にははた迷惑かも知れませんが、神のvocation、呼びかけは万人に投げかけられているものです。答えるかどうかは人それぞれ。
 と、思ったのだけど通じずらい言葉をさらに通じずらくするのもどうよと思うので名から命に直した。