ジャン=ピエール・トレル 『カトリック神学入門』

 手短に書いておく。上に書いてある通り、入試前に買って読んだ。さすがに何も知らないのはまずいだろうと思って書店で目に付いたのでパラパラとめくって購入した。なお、神学の入門書としては以下の書籍がある。(カトリックに関して)

 

カトリック神学への招き

カトリック神学への招き

 神学の基礎となる哲学分野から神学全体の見取り図になるように構成されてるようです。まだ読んでない。日本語で書かれた神学入門書としては初めてだそうです。なんで今までなかったのかが疑問でしかたがないのですが・・・初年度の講義で神学それ自体を問題とする、つまり、方法、前提、対象等々を扱わなかったので私は入学早々機嫌が悪かったのですが、今年度からは改善されてるようです。(http://www.sophia.ac.jp/J/sogo.nsf/Content/sup47)

 

カトリック神学 (文庫クセジュ 438)

カトリック神学 (文庫クセジュ 438)

 出版は『カトリック神学入門』より前、第二バチカン公会議直後なのでその影響が色濃い。いささか読みにくい部分がある。詳しくは機会をあらためて書きます。

 他にもあるとは思うのですが以下『カトリック神学入門』の紹介

カトリック神学入門 (文庫クセジュ)

カトリック神学入門 (文庫クセジュ)

 著者はドミニコ会の修道士でトマス・アクィナスの研究者でもある。本書もトマスの神学に沿いながらカトリック神学とその歴史、性格、方法について説明がなされる。神学の歴史、発生から展開(第一章、第二章)、つまり教理史、神学の方法論(第三章)つまり理性と信仰の関係、実証神学(第四章)、つまり教父学と聖書学と思弁神学との関係、現代神学の諸相(第五章)となる。

 著者は、神学を「啓示と理性の二重の照明のもとに、信仰について深く省察することである」(p5)とみなす。どんな神学にも肝要な三つの要素として啓示、信仰、理性をあげる。その意味で、「自分の信仰を理解しようと試みたキリスト者こそ、それと知らずに神学した人だった、と言えるであろう」(p7)と述べる。
 著者は、神学を「人間の努力から生まれる」(p8)ものであるとし、それ故に神学は「それらを導く哲学ないしは方法論の選択肢に従って枝分かれする可能性があり、拮抗することさえありうる」(p8)と述べる。なお著者はここ最近、「カトリック神学者たち相互の違いが、教会学のさまざまに分岐した選択肢から生じ、共通の哲学の不在に、より深く根をおろしているように」(p8)見えるものの、だからといって現代の神学者が「同時代の諸々の要請や新しい道の模索に対して注意を払うことを排除するものではないが、だがそのために「信仰の知的理解」という究極目標をふるい落とすことはおよそありえない」(p152)と述べる。そして、この目標のためには「キリストと使徒たちから受け取った信仰に専心することと、それを教会の土壌に深く根づかせることが同時に要求される」(p152)と述べる。

 なお初めて読んだときには理解できなかったこと、特に昨今の「共通の哲学の不在」による不一致については、神学部に二年籍を置くだけ(二年間講義で学んだとは口が裂けても言えないが、なぜなら私は落第生であるから)でもいやでも理解させられた。方法が何であれ、「啓示された事柄に敬意を表するかぎり、それらはいずれも正当なものではあるが、みながみな理性からみて妥当なものであるとはかぎらない。それらの妥当性は、それらが内面的にも外面的にも首尾一貫性を備えているかどうかで判断できる」(p8)との著者の意見にはあらためて読み直したときと以前とでは言葉の重みが違って感じられた。
 特に第五章「現代神学の趨勢と諸問題」において著者が試みようとしている「第二ヴァティカン公会議が巻き起こした大きな興奮の余韻のなかにある神学の現況を記述しようとする試み」(p120)は容易な作業ではなく、このことは初学者にとっての困難をも意味するのではなかろうか。「極度に多様化し」(p120)「神学的知識の領域の細分化が進み、専門に分かれてそれぞれ自立性をつよめ」(p120)る状況で、神学を学び始めるということは何から始めてよいか全くわからないことをも意味する。
 「神学のこうした位置変動とその重大性に、神学の現在と未来に、これほど多くの問いが発せられた時代はいままで一度もなかったのである。ニューマンに倣っていうならば、ある意味ではよい結果をもたらすこうした変化をくぐりぬけて永遠普遍のタイプが生きながらえるか、それとも現代性が「深く根づいたもの」に対して勝利を収めるか、という問いをここでも発して、その答えを見きわめておかねばならない。」(p122)と著者は述べるが、あくまで私個人としては“永遠普遍のタイプ”の神学に心引かれる。
 なお、四谷の大学で行われる神学は著者が述べる「新しい主役」(p120)つまり「西欧以外の神学者たち(ラテンアメリカ、アジアなど)」(p120)による「カール・ラーナーがかつて「人間学的回心」と名づけたものから広く生まれ」(p120)た神学である。なおここで私は以前のように神学がヨーロッパのしかも聖職者に限られればよいと述べるつもりはない。ただ、初学者にとって広がり続ける各分野を学ぶための適当な入門、また神学者同士がお互いの成果を生かすために共通のプラットフォームがやはり必要ではないかと述べたいのであり、また教導職との間で神学者の行き過ぎがいささかあるのではないかと懸念するだけである。
 教導職との関係であるが、当然ながら大学に入る前にはそれほど気にもならなかったが著者の以下の指摘は重要であると思う。
 

 新たな緊張がたかまるたびごとに、神学の専門誌に洪水のようにあふれる論説の数々は、このタイプの論議の陥りやすい自己中心的態度の危険を雄弁に物語っている。結局のところ問われているのは神学者たち自身でも教導職そのものでもなく、神の民の幸福なのである。したがって、神学者たちも教導職も、それぞれ、神の民に対してとるべき態度を定義しなおすことが肝要である。神学の機能と教導権の機能は―専門領域が排他的に一方にかぎられた―「競合的な」ものではなく、むしろ「一点に収束する」二つの大きな力として定義づけられる。両者は、ただ一つの信仰、同じ一つの神のことばに仕え、唯一の神の民のなかにある―ただし同じ面においてではない―二つの機能である。 p148

 一人の学者の学問的な教導権は、その性格そのものからして、限定され、一時的なものである。限定されているというのは、この教導権は、それを行使する人の専門領域にかぎられているからである。一時的であるというのは、弟子が師匠の学問の域に到達してしまえば、師匠の優位性は消滅してしまうからである。人類の学問は、このように新しい世代が古い世代を乗り越えることによって進歩する。神学という学問の領域でも、事情はほとんど変わらない。神学の及ぼす教導権は、秘蹟と霊的賜物によって、信仰の十全性と福音に従うキリスト教的生活の正しさを注意部深く見守る役割を授かった司牧者たちの教導権とはくらべものにならない。神学者も教会のなかに組みこまれているのだから、彼の教えの有効性は教える当人の専門的能力だけでは測れない位階組織の司牧的使命にも従わなければならないのである。それに、そこで学問的な基準がどれほど重要であるにしても、それだけがすべてではない。信仰が正統なものであること、そしてキリスト教的な生活習慣に関する教えが福音書の精神と合致していることも、決定的な基準となり、この基準からこのカトリック神学者の使命行使の在り方を評価しなければならないのである。もちろんそれだけですべての問題を解決できるわけではない。そうすることによって神学者たちを彼らの学問の本来の場に送り返すことができるのである。pp149-150

いささか引用が長くなったが、キリスト者としての信仰理解が神学の根底にあること、そして信仰は父なる神と母なる教会に結ばれていることをあらためて思い返し、そこから神学の全体を見直す必要があるように私には思われる。その意味からも、神学は聖職者のみのものではなく、一般の信徒にあっても学ぶことができるものであること、そして初学者のための神学入門が必要不可欠であるとも思う。
 なお、以上からもわかるようにトレル師は神学を信仰から始めている。このことは至極全うであり正当であるとも思うのだが、もし欲張るならば神学による探求はいまだに信仰をえていない人にとっても有益であるし、またそれらを提供するのも神学者の役割であると私には思われる。