吉満義彦にみる『キリスト教ヒューマニズム』

 吉満義彦(1904-1945)の論考中におけるキリスト教ヒューマニズム理解を考察する。以下においては吉満義彦全集*1(講談社1984年)五巻収録の「新しき秩序‐充足的ヒューマニズムの立場‐」「カトリシズムとヒューマニズム」「新スコラ哲学と現代ヒューマニズム上智大学哲学会公開講演のために‐」を扱う。*2
 吉満義彦がどのような人物であるか*3の紹介が不可欠であると思うが、ここではカトリック思想家、哲学者としての論考それ自体を考察の対象にしたいと考える。
 まず初めに各論文が掲載された媒体について記しておく。『読売新聞』については説明不要と思う、ただどのような事情で掲載されたかについて興味もおこるが、ここでは一般の新聞読者向けに書かれたということが理解できていれば問題はない。続いて上智大学哲学会での講演であるが、吉満はフランス帰国後*4から上智大学で哲学を講じているのでその一環としておこなわれたものと思われる。なお「新しき秩序」が掲載された『創造』であるが、吉満が中心となり1934年から1940年まで出版されたカトリック思想誌である。創刊から休刊される16号まで毎号巻頭論文を吉満は投稿していた。この論文もその一つである。

 五つの新聞掲載の記事をまとめたものである。記事はそれぞれ、「ヨーロッパにおける新ヒューマニズムの意義」「二つの人間性論」「二つの極性的人間性について」「カトリシズムに帰すべき志向」「近代ヒューマニズムの破産」となっている。当時(1936年)の読者を想定しての新聞記事であり、当時の世相、思想状況などの考察が不可欠と思われる。ただ、ここではその用意もないので“カトリシズム”故の普遍性を加味しながら呼んでみたいと思う*5
 まず初めに吉満は、この当時ヨーロッパ、また日本で取り上げられていた*6“新ヒューマニズム”は「キリスト教的世界観や人間観を背景的対照において初めて真実に理解される」(p417)と指摘する。それは「キリスト教そのものの根本理解を要する問題」(p417)であり、結局のところ「神の問題を根底においてもっているので、ヒューマニズムの問題は何よりもまず神学的提題として真実の深い意味をもつものである」(p417)と述べる。
 吉満は、西欧的なヒューマニズムには「西欧クラシック的なもの」(p417)また「キリスト教的なもの」(p417)の二つの源泉があり、いずれも「人間性を時間超越的な宗教的な不朽性において意識せんとするもの」(p417)*7であって、キリスト教中世世界においては両要素が平衡を保っていたものの、「近代的なルネッサンスヒューマニズム意識に至って明らかにこの平衡緊張の調和は破られ、次第に両者の分裂は激しくなり、ヒューマニズムそのものがやがてただちに非宗教的人間性意識を意味する傾向を取り、人間性自己充足性へ、次に自己神化への発展となり、今日の反宗教的な一切の超越性の形而上学を拒否する人間性ヒロイズムが「新しきヒューマニズム」として出現した」(pp417-418)と述べる。
 吉満は、ルネッサンス以来の近代ヒューマニズムの延長として現代の“無神論的”ヒューマニズムを捉えており、之に対して“キリスト教的”ヒューマニズムもう一つのヒューマニズムとして提示する。
 では、ここで吉満が提示するキリスト教ヒューマニズムとはいったいどのようなものなのであろうか?

アウグスティヌス以来キリスト教神学における人間学的教義は一重に人間の自由と神の救済恩寵の問題であり、中世カトリシズムは結局ペラギウス的人間自主的合理主義に対するアウグスティヌス的恩寵人間によって貫かれ、同じアウグスティヌス的信仰叡智の論理的形而上学的体系づけが、聖トマス的な恩寵への理性的人格的自由創造の秩序づけのいわゆる「類比」関係(analogia entis creati et increeati)として、神に向かっての神中心的人間理解文化理解として成立したのである。(p420)

吉満がここで念頭においているのは、恩寵により完成される自然(トマス・アクィナス)であり、これは新トマス主義のマリタンの述べる“充足的ヒューマニズム”理解と同様のものである。ここでの問題は現代においてキリスト教人間理解が通用するのかである。傍から見るならば、ルネッサンス以来の近代ヒューマニズムが仮に破綻しているとしても、その解決として中世期まで通用していた人間理解を再提示したところで一種の反動としか見えないであろう。
 以下においては吉満の指摘する近代ヒューマニズムの破綻とキリスト教的な人間理解との関係についてを詳しく見ていくこととする。

*1:特に断りのない場合“全集”と略記する。吉満の著作目録が五巻巻末に掲載されている。より以前のものとして、みすず書房から昭和二十二年に全集が出版されている。

*2:これら三論考は『文学と倫理』十字堂書房、昭和十二年四月、中に雑誌等に掲載された論文から“ヒューマニズムの問題”としてまとめ、再録されたものである。それぞれ初出は「新しき秩序」『創造』昭和十一年七月。「カトリシズムとヒューマニズム」『読売新聞』昭和十一年十月一日〜五日号。「新スコラ哲学とヒューマニズム上智大学哲学会公開講演。昭和十一年十一月。

*3:詳しい人物評に関しては、全集各巻の編者解説、また没五十年に編集された『永遠の詩人哲学者吉満義彦』吉満義彦帰天50周年記念出版の会編、1997年、ドン・ボスコ社等の紹介を参照。又、思想史研究からのアプローチとして、半澤孝麿『近代日本のカトリシズム』みすず書房、1993年中の「近代日本思想史のカトリシズム‐吉満義彦との対話」を参照のこと。

*4:吉満は東京帝国大学文学部倫理学科卒業後の1928年から1930年まで岩下神父の薦めもありフランスにおいてジャック・マリタンに師事し新トマス主義の哲学を研究した。ヒューマニズム理解に限らず吉満の思索にはマリタンの影響が見られる。吉満は帰国した翌年の1931年4月より上智大学および東京公教神学校で哲学を講じている。

*5:この論考では周辺調査、例えば同時代の思想家として三木清との比較を試みるなど当時の思想状況を加味しての分析が欠けている。当然日本の思想史において吉満の思想を位置づける必要があると私も考えるが、ここでの目的は吉満の思想を一般に紹介すると共に彼が(当時の一般読者に)紹介する“キリスト教ヒューマニズム”について吉満と同じくカトリシズムの立場から考察することにある。

*6:当時、つまり1930年代の“新ヒューマニズム”なる問題意識がどのようなものであるか、理解する必要があると思うが、その点については吉満によってなされるからよいとして、ここでは“日本において”の問題意識について補足をしておく。吉満は「今日この国においてもさまざまな見地からヒューマニズムの問題が取り上げられている」(p416)と指摘した上でその理解のされ方に「その時代精神の標語的暗示的意識以外に内容の具体的な本質的な把握ないし意識が欠けているか少なくとも希薄であるかのごとく見える」(p416)と不満を漏らす。つまり、日本で当時盛んに取り上げられていた“新ヒューマニズム”は吉満から見ると皮相的であると共に特殊日本的ないし時代的なものと理解されていたこととなる。「確かにそれはヒューマニズムの新しき日本的意識(日本におけるという意味の日本的)として近代日本のイデオロギーにおけるある歴史的段階の表現として勝手に日本流の「新しきヒューマニズム」が言われてもさしつかえないのであろうし、とにかく現代日本の文化的自覚として新しき日本文化建設への積極的展望のためにヒューマニティの新しき意識はそれ自身大いなる意味と使命をもつであろう」(pp416-417)と一定の評価をした上でヒューマニティの根本的な理解、つまり神学的な問題把握を吉満は日本の読者に提示しようとしている。この論考では詳しく扱うことはできないが、吉満がここで批判する当時の思想家たちによる“日本の”新ヒューマニズムの理解と比較することは有意義であると思う。また、第二バチカン公会議以後、『現代化』および『文化受肉』を問題とするカトリック神学者、哲学者、思想家にとっても吉満の緒論は参考になるであろう。

*7:本文中、傍点部強調を引用中においては太字強調とする。以下同。