アウシュヴィッツの残りのもの

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生と死のあいだにある状況が、これまで見てきたように、回教徒、別名「歩く死体」についてのどの記述にも見られる特徴のひとつである。
しかし、死へのこの近接は、また別の、もっと冒涜的な意味を持ちうる。それは、生というよりも死の尊厳(dinita)もしくは不面目(indignita〔非尊厳〕)にかんするものである。

回教徒を定義しているものは、かれらの生はもはや生ではないということであるよりも(・・・)、かれらの死は死ではないということであることを考えれば、それはますます適切である。このこと―ひとりの人間的存在の死がもはや死とは呼ばれえないということ(・・・)―は、回教徒が収容所にもたらし、収容所が世界にもたらす特別の恐怖である。
死がもはや死と呼ばれえないところでは、死体もまた死体とは呼ばれえないのである。

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収容所を定義するものは、単なる生の否定ではないということ、それの恐怖は、死に尽きるわけでも、犠牲者の数に尽きるわけでもまったくないということ、損なわれたのは生の尊厳ではなく、死の尊厳であるということは、すでに着目されていた。

ともあれ、「死体の製造」という表現は、もうここでは死についてそれ本来の意味で語ることはできないこと、収容所での死は死ではなく、死よりもはるかに冒涜的なものであることを含意している。アウシュヴィッツでは、人が死んだのではなく、死体が生産されたのである。その死亡が流れ作業による生産にまでおとしめられた、死のない死体、非-人間。

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しかし、死のおとしめがアウシュヴィッツの倫理的問題をなしているということは、けっして自明なことではない。

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しかしそれなら、収容所においては、死ぬ死、本来的な存在のうちで耐えられる死とは、なんでありえたのだろうか。そして、アウシュヴィッツでは、本来の死を本来のものでない死から区別することに本当に意味があるのだろうか。