アリストテレス 政治学

第一章 教育の公共性

立法家がなによりも若い者の教育に関与すべきことには、だれも異存のないところであろう。

国家において教育が行なわなければ、国制は損失をこうむるからである。

教育はそれぞれの国制の方針に沿って行なわれるべきだからである。

国制にはそれに固有な性格というものがあって、そえが最初に国制を打ちたて、国制をつねに守るのである

すべての能力や技術の場合には、それぞれが仕事を遂行するためには、あらかじめ教育され、習慣づけられなければならない過程がある。

徳の実践のためにもおなじような過程があらねばならないのは明らかである。

国家全体にとって目的は一つであるから、明らかに教育もすべての人にとって同一であらねばならない。そして教育の配慮も公共的であるべきで、個人的な事柄であってはならない。

公共の事柄に関しては、その訓練もまた公共的になされるべきである。同時にまた、市民のいかなる者も自分自身に属すると考えるべきでなく、国家全体に属すると考えるべきである。というのは各人が国家の部分をなしているからである。そして各部分の配慮は自然本来的に全体の配慮へと向けられる。

第二章 教育の方針

教育について法を制定すべきであって、しかも教育は公共的になされるべきことは明らかである。しかしその教育はどんな教育であるべきか、またどのようにして教育を受けるべきかは見過ごしてならない問題である。というのは、現在その固有の課業についての論争があるからである。徳を目指すにせよ、あるいは最善の生を目指すにせよ、とにかくそのことのために若者が同じことを学ぶべきだとは、かならずしもすべての人が考えていないし、また、はたして教育が知力に向けられるのか、それとも魂の性格に向けられるのか、いずれがいっそう適しているか判然としないからである。日頃の教育を見るならこんらんするだけであって、教育によって身につけるべきは、生活に役立つ事柄か、徳に導く事柄か、並はずれた事柄か、なにもはっきりしていない。というのは、これらのすべてはそれぞれ相当数の支持者を得ているからである。しかし徳に貢献する事柄については意見の一致はまったくない。というのはないよりもまず、すべての人が同じ徳を尊ぶわけではないので、徳の訓練についても意見を異にするのは当然の理であるからである。