岐路に立つ教育

すべての者にとって人間になることこそが、最も重要で最も困難だということになる。それゆえ、教育の主要な任務は、何よりも人間を形成すること、言い換えれば、人間が自分を人間として形成する発展的なダイナミズムを導くことにある。(p4)

忘れてはならないのは、教育という言葉が三つの互いに重なりあう意味をもっており、人間を形成し、その実現へと導くすべてのプロセスを指すか(最広義の教育)、成人が若い世代に対して意図的に行う形成の働きを指すか、あるいは最も厳密な意味で学校や大学の特別の働きをさすということである。(p4)

教育は技芸(art)、それも特別に難しい技芸である。しかもそれは、その本性によって倫理と実践的叡智の領域に属する。教育は倫理的技芸(というよりむしろ、一定の技芸を伴う実践的叡智)である。ところで、すべての技芸は達成されるべき対象に向けたダイナミックな動きであり、この対象がこの技芸の目的である。目的のない技芸はない。技芸の本当の活力となるのは、技芸が中間段階に止まることなく、その目的へと直接向うエネルギーである。(p5)

最初の誤謬は目的の欠如または無視である。もし手段が手段としてでなく、それ自体の完成のために愛好され、洗練されていくなら、それに応じて手段は目的へと向うのを止め、技芸はその実用性を失う。(p5)

目的に対して手段が優先されること、その結果としてすべての確実な目的と真の有効性が失われたことが、現代教育の最も非難すべき点であるように思われる。現代教育の手段は悪くない。むしろそれは、一般に旧教育の手段にはるかに勝っている。しかし残念なことは、まさに手段が非常によいために、我々が目的を見失ってしまうということである。(p6)

我々が現代の教育的手段・方法、それ自体の完成に愛着し、それを目的へと向けることができないところに起因する。子どもは十分にテストされ、観察され、その要求は詳しく列挙され、その心理は浮き彫りにされ、子どもの学業の達成を容易にする方法はどこでも十分に完成されている。そのため、かえってこのような賞賛すべき改善の目的が忘れられ、無視される険性あるのである。(p6)

教育の手段・方法の科学的改善は、それ自体素晴らしい進歩である。しかし、それが重要になればなるほど、それに並行して実践的叡智を深め、目的に向うダイナミックな動きを強めることが必要となるのである。(p6)

教育に関する第二の一般的誤謬は、目的を現実に軽んじることにあるのではなく、目的の本質に関する誤った、あるいは不完全な考え方にある。教育のなすべきことは、多くの人が想像するよりも一層偉大で、神秘的であると同時に、ある意味では一層謙虚なものである。もし教育の目的が人間をその人間の実現へと向けて援助し、導くことにあるなら、教育は複雑な哲学の問題を避けて通ることはできない。なざなら教育は、まさにその本性から人間の哲学を前提としており、まず初めに「人間とは何か」というスフィンクス的な哲学的問いかけに答えなければならないからである。(pp6-7)