デカルトよりトマスへの道 一つの経験

『哲学者の神』p35-36

大方の読者に興味があろうとも思われないが、編者の意志に従って、ささやかながら自らのデカルトをめぐっての思想的経験を短く録して見る事にしよう。自分一個の思想的経験などどうでもよいつまらぬ問題であるが、今のところこの国では他に同志も見つからない一つの哲学的立場を何とか、それで弁証し得れば、それはまた単なる個人の問題ではなくなるであろう。哲学の立場は個人の立場ではあり得ない。哲学には独創などと言う気まぐれがあってはならない。哲学は固有名詞をつけて特色づけられるべきものでは決してない。哲学の世界には新しいものは一つもない。古い真理探究の道において、人類の精神はその最高の最深の代表者達によって、その哲学的精神的可能性を、既に見極めつくして終わった。今頃何か新しい哲学的真理でも発見したと自惚れる人があったら、それだけでその人は哲学者などではない事を証明しているようなものだ。ゲーテではないが「真理は既に発見されてあるのだ」。ただ古い発見されてある真理が自分にも見えてくるまでは、その人には真理はまだ何処にもなく、ただいたる所に真理の幻影を見て宙に足を浮かすのだ。デカルトは近代哲学の祖かも知れないが、近代哲学は無から創造されたのではない。哲学の歴史には古代も中世も近代もない事が分かった時に、デカルトはまたオリュンポスの神々の座に連なり座する者ともなろうか。しかし実際のところ、哲学の歴史では近代は没落の時代で、べギーではないが「我々は侏儒に過ぎない」。というのは哲学は形而上的知性力によって測られるとすればデカルト以後の哲学は形而上学以前の門前の「修業」に他ならず、マリタンの言う如く「天使を瞑想した事のない人は形而上学者ではない」からである。しかしデカルトはそれでも古典の哲学者達に精神の系譜をちゃんと持っていた。その事を本当に知ったのはお恥ずかしい話ながらそれ程以前の事ではなかった。 

 上記は1940年「デカルト選集」附録月報第五号が初出である。 吉満義彦氏に関しては岩下壮一神父、田中耕太郎氏程には知られていないように思われる。戦前から戦後にかけてのカトリックの代表的な知識人としては、上記の三名に九鬼周造を加えるだけで十分である。なお吉満氏は昭和二十年に亡くなっているため氏の著作物の著作権は既に切れている。青空文庫などで利用可のなものとしては九鬼の著作物の幾つかがあるが、岩下、吉満両氏の著作はいまだ手付かずである。僭越ながら私が幾つかの著作物をこのような形で引用していくこととする。
 なお本論稿よりの引用をした理由は幾つかあるが、上記で記されているのと同様の見解に私も至ったからである。そうでなければ私が神学部で学ぶこともなかった。ジョンロック、デカルトの思想に影響しているスコラ学を学びたいと今でも考えている。無論神学部で学びたいと思った理由には純粋に理性から出る欲求も一つの側面としてあるが、もう一つの側面としては信仰からでる欲求がある。そして神学部への進学を決めた大きな理由の一つに教皇の「レーゲンスブルク大学での講演」*1を熟読したことがあげれます。講演の副題でもある「信仰、理性、大学 回顧と考察」からわかるように神学の、カトリックの一つのモットーでもある「信仰と理性の一致と調和」の必要を訴える教皇の講演に触れた以上、私の選ぶものは一つしかありませんでした。と、同時に私がこの講演を熟読する理由の一つに、教皇の講演に対しての無理解に反発する気持ちがありました。私が神学を学ぶ目的は入学以前より『護教』のためであり他に目的はありません。 

教皇の講演から結論部を引用をしましょう。

そこでわたしは結論を述べたいと思います。以上に荒削りなしかたで近代における理性の自己批判について述べたのは、わたしたちが啓蒙主義以前の時代にもう一度戻るべきであるとか、近代の思想を否定すべきだとか、いいたいためではありません。近代の精神的な発展の意義は、十分に認められるべきものです。わたしたちは皆、近代精神がわたしたちに開いた大きな可能性と、わたしたちが経験した人類の進歩に感謝しています。さらに、自然科学の精神は――学長がすでに述べられた通り――、真理への忠実さであり、そうである限り、それは、キリスト教の本質的なあり方に属する、根本的な態度の表現です。
 わたしは撤回や、否定的な批判を行いたいのではありません。いいたいことはむしろ、わたしたちの理性概念と理性の使用を拡大するということです。わたしたちは、人類にもたらされた新たな可能性を享受する一方で、この可能性から生じたさまざまな危険も目にしています。そしてわたしたちは、どうすればこのような危険に対処できるか、自らに問いかけなければなりません。
 そのために、理性と信仰を新たなしかたで総合しなければなりません。人が自らに命じた、経験的に反証可能な領域への理性の限定を克服し、理性を広い空間に向けて再び開放しなければなりません。この意味で、神学は、たんなる歴史的・人文科学的学科としてではなく、本来の意味での神学として、すなわち、信仰の合理性への問いとして、大学に属し、諸科学の大きな対話に加わるのです。
 このようにして初めて、わたしたちは、わたしたちが緊急に必要としている、諸文化と諸宗教との真の意味での対話を行うことが可能になるのです。西洋世界では、実証的な理性と、実証的な理性に基づく哲学のみが普遍性をもつという考えが、ずっと支配してきました。しかし、世界の深い宗教的諸文化は、このように理性の普遍性から神的なものを排除することを、彼らのもっとも深い確信に対する攻撃とみなしています。
 神的なものに対して耳を閉ざし、宗教をサブカルチャーの領域に押しやるような理性は、諸文化との対話に入ることができません。同時に、わたしが示そうと試みたように、本質的にプラトン主義的な要素をもつ近代自然科学の理性は、自らの内に、自分自身とその方法論的可能性を超えたものをめざす問いを含みもっています。近代自然科学の理性は、物質の合理的構造を、また、わたしたちの精神と自然を支配する合理的な構造の対応を、単純に所与として受け入れなければなりません。その方法論はこうした所与に基づいているからです。
 しかしながら、なぜそうしなければならないのかという問いは、依然として残ります。そして、自然科学はこの問いを、他の思考領域と思考様式に――すなわち哲学と神学に委ねなければなりません。哲学にとって、また、違うしかたではありますが、神学にとって、人類の宗教的諸伝統の、とりわけキリスト教信仰の、偉大な経験と洞察に耳を傾けることが、認識の源泉となります。こうした源泉を拒絶するなら、わたしたちは、許しがたいしかたで、自分たちが耳を傾け、応答する態度を制約することになります。
 ここでわたしは、ソクラテスパイドンに対して述べたことばを思い起こします。それまでの対話の中で、多くの誤った哲学的見解に触れた後、ソクラテスはこういいます。「そのようなさまざまな言論に出会ったからといって、・・・・ついには苦しみのあまりに・・・・以後の生は、すべて言論を憎みののしりながら終始することになり、存在するものの真実と、その知識にはあずかりえぬものとなってしまうのだ」(13)。
 西洋世界は長い間、自らの理性の基礎にある問いを嫌うことによって、危険にさらされてきました。また、このことによって大きな損失をこうむるおそれがあります。理性を広げる勇気をもつこと。理性の偉大さを拒絶しないこと。これが、聖書の信仰に基づく神学が、現代の議論に加わるための計画なのです。
 マヌエル二世は、自らのキリスト教的な神像に従って、ペルシア人の対話者に対して、「理性に従わない、すなわちロゴスに従わない行動は、神の本性に反する」といいました。わたしたちも、諸文化との対話において、この偉大なロゴスへと、この理性の広がりへと、対話の相手を招きます。理性を常に新たに発見すること。それが、大学の偉大な課題なのです。

この教皇の見解は独特で、彼が鋭敏な神学者だったから出たものでしょうか?否、断じて否。前教皇からも信仰と理性の一致に努めるよう回勅が発せられています。もちろんそれ以前からそれはつまり教父の時代、そしてそれ以前の使徒たちのころから。
 私は神学を学ぶ人たちが皆教皇のように鋭敏でかつ理性に忠実であると期待していました。それは今でもかわりません。しかしながら、上智大学の神学部の皆様は教皇の批判する多くの点を自らの神学のうちに含んでおり、私はいまだにその点について納得がいかないですし、酷く不安にさせられてしまいます。
 私が必要と感じ、そして教皇も又必要とする理性の拡張とは具体的に何を意味するのでしょうか?端的に言うとそれは形而上学に他なりません。それは恩寵と啓示の帰結として、そして出発点としての理性と自由意志を持って超越したもの、神に向き合うことです。私は教皇が講演で批判した宗教多元主義、包括主義に基づくインカルチュレーションを退けます。しかし、私は諸宗教との対話を指向しないわけではありません。ただ、私は形而上学を通じて他の宗教と対話を試みるだけです。
 神学が、特にカトリックの神学がまず果さなければならないのはまず何よりも形而上の問いが可能であることを自ら身を以って証しすることです。残念ながら神学部においてスコラ学、つまり形而上また形而下の問いの統合を目指した理性と自由意志による学問が放棄されて久しくなっていますが、それは一からスコラの言葉を学ぶところから始められなければならないと私は思っています。
 スコラ学をただ単に中世思想、中世哲学と解することを私は退けます。またこれを単にトマス主義、新トマス主義とも解しません。
 なお、喧嘩売ってるのかといわれればその通りです。正直イエズス会士の神学と哲学は非常に不愉快です。ですが、長いことあなたがたの学校で教わったことについては感謝しています。特に中等教育の過程に関しては。ですが、あなたがたの現在指向する哲学、それは多元主義であり、包括主義であり、あげく相対主義ですらある、を許容し、学問的に受容することは出来ません。先日記したように学究を指向するということはあなたがたを学問の場において批判する覚悟を固めたことを意味します。