博士たちのワーキングプア

 id:eireneさんの所経由でyoutubeで視聴して感じたこと・・・と言うより日頃感じている日本の教育や学問に対しての問題意識。

 まずはっきりさせておきたいのですが、学問はそれが自然科学、社会科学、人文科学、はたまた人文学、哲学となろうともどのような分野であっても真、善、美のいずれかの至高性を探究するものだと言うことはそれが学問それぞれの前提、方法、対象を持っていたとしても同意してもらえることだと考えます。探究する対象概念がなんであるか議論が分かれるにしてもこのお題目(敢えてお題目と書く)に反論をする人はいないと考えます。そもそもこの点に同意しないのであれば、博士のワーキングプアが問題とされ得ないからです。これらの学問に、それが実利的であろうとなかろうと従事する人たちが社会においてうまくその能力を発揮できずにいるという問題意識が博士のワーキングプア問題の根底には有るからです。もし仮に真や善や美と言う実利的に見えないものの価値を放棄するのであれば結構、ワーキングプアの問題も解決です。大学では実利にかなう研究をすればよいことになります。

 まず学問が真、善、美を志向するものつまり芸術などと同様に人間の文化活動でありまた文化に貢献するものとの主張を認めるとして少し見方を変えたいのですが、番組で取り上げられていた人もそうですし今常勤職についている研究者にしてもそうですし、これから研究職につこうと院や大学に進学を希望している人にも問いたいのですが、あなたがたは真であれ、善であれ、美であれを探究していますか?していましたか?するつもりですか?と。

 先に大まかな私の主張を提示しておくと、学問領域、それが自然科学/社会科学/人文科学/人文学・哲学という大きなくくりであれ、学部、学科の小さなくくりであれ、研究者に必要不可欠の教養が欠落しているのではないかと言いたいのです。なぜ博士の就職問題と言う社会・労働問題に対して教養云々と言う的外れと思われる主張をするのか説明が必要であると思います。

 端的に述べるなら学問を志向する年齢がどの分野においても遅すぎると私は主張したいのです。まず学問がどのような分野であれ真と善と美とを志向することをまず明示し、認識しなければなりません。それに必要なのは哲学です。哲学と言うと些か語弊があると考えるので認識論と言い換えるのが適当でしょう。仮にある人が将来学問を志すとするなら、その採用する学問、学問はそれぞれ良かれ悪かれ独自の前提、方法、対象を持つものですがそれらを習得するより前に学問が目的とするものをある程度理解することがまずもって必要ですし、学問独自の知的な体系を理解するための知的な訓練が必要です。

 端的に述べるなら中等教育段階でのリベラルアーツ、教養教育が現在の日本では欠如していると言うことです。この欠落は様々な弊害をもたらします。弊害の幾つかを特に学問に従事する人間に関してで述べることとしますが、これらの基礎教養を欠いた研究者はまずもって自らの学問の目的を明確に認識しません。また、彼ら自身の採用する方法論を問い直すこともできません。認識論哲学の欠如は自然『科学』、社会『科学』、人文『科学』に大きな損失を与えます。なぜなら『科学』を自称する彼らの方法論は粗末な言葉で表わすと客観性と言うフレーズに担保されるのですが、その客観性が妥当なものであるか問うのはそれぞれの学問の方法論と密接に関係する認識論の哲学となるからです。また自然科学であろうとも学問は人間の行う知的な所作であることを理解するのは認識論哲学の役割です。

 これらの認識論哲学を含めて問い直すのが人文学・哲学の役割です。人文学は主に古典学及び論理学、修辞学、弁論術で構成されるものです。それに対し哲学は認識論から形而上学までの哲学分野に関して扱うこととなります。なお、現在の高等教育機関において教養課程の崩壊は既に言わずもがなの状況でありますし、私は教養教育に関して現在の高等教育機関には一切期待しておりません。また大学で上記の諸学問の基礎としての認識論、またそれを養い研磨するための人文学・古典学を教授するのでは遅すぎると考えています。何ゆえ遅すぎるのかですが、仮にこれら諸学問に従事する才のある人であれば14から基礎的な認識論についての教授を行っても十分消化することができるからです。と同時にこの時期に学生それぞれの興味関心、志向に異なりが有ろうとも学問に必要な基礎教養を身につけておかなければ専門課程に進む際の躓きとなってしまうからです。

 もう少し具体的に話しましょう、まず第一に自然科学一般についてですが、現況の高等教育及び中等教育過程の科学教育にそれ程不備はないと私は考えます。しいて言うなら科学史、及び科学哲学として先ほどから述べている認識論、又数学史・自然科学史として古典的な内容に対しての補足的な教授が必要であると考えます。と、同時に之は理系、文系、又研究職に将来従事する否かには関係のないことですが、当然ながら良識ある市民のための教養、これは必然的に善に関してつまり道徳となるわけですが、についての講義が現在の倫理、政経などの授業形態とは異なる形で必要であると考えます。
 
 特に文系及び中等教育の過程で必要とされる市民一般に必要な教養に関してですが、この点に関してはそれ程理系、文系と区別する必要を私は考えません。まず大きな目的としては中等教育の過程において支配的な情念論とでも呼ぶべきものを一掃することです。学校教育で支配的な心情、感情、情緒の優位の元凶はまずもって教育学部での心理学の優位に帰すべきです。それに対して私が必要とするのは中等教育における理性の優位です。端的に述べるなら中等教育におけるヘゲモニー教育心理学から哲学に移すことが私の目指すものです。

 大学において行われる学問はむろんのこと個人的な心情を一切挟まないのが前提です。(少なくとも科学であれば)中等教育で目ざす理性の優位は大学での学問のための準備となります。このことに対しての心情論者からの批判が想定されますが、私が問題としているのは高等教育機関で学問に従事する人間の教育を考えています。と同時に、昨今必要が叫ばれるリテラシーの基礎となるのも又私の述べる理性の優位であると考えます。
 
 理性を研磨するための教育は学問に従事する人間には必須ですし、それに従事しない一般市民にしてもできうるならば持つべき素養の一つと言って問題はないものです。これは明治以来のことですが、日本では学問と基礎としての教養がいい加減なままでした。研究者が自らの研究が一般に理解されがたいとはどのような分野、立場であっても口にすることですが、中等教育においての教養教育は一般市民に対しても研究や学問の意味を受け入れやすくするための役割も当然果すものであると考えます。研究の裾野を広げる必要があるとはよく言われることですが、その裾野は無論一般市民にまで広がるものでなければなりません。

 なお付言しておきますが、私は理性の優位を訴えますが、私の述べる理性は超えたものに開かれたものであると同時に越えたものによって制限されるものである。と同時に私は個々の心情を大事にする。故に教育と言う規律訓練を含んだ場所で大事な個人の心情を扱うことを避けたいと考えている。




 些か話が飛びすぎたので博士のワーキングプアについての見解を示しておくと。個人の興味関心、好奇心のみで研究者を志願するのはやめるべきだ。真、善、美を探究するものと述べておいたが、美を主に探究する芸術家を考えてみればよい。研究者になるとは少なくとも絵描きとなるのと同じ覚悟が必要だと言うことだ。絵描きになると言えば周りもそれ相応の覚悟と本人自身の才能に対する信仰とでも言うものを求めるものだが、なぜか学問を志す研究者にそれ程の覚悟を求めるものがいないのが気になるし、その覚悟が院に進学する学生にも感じられない。残念なのだがもう少し勉強がしたいからと進学する場所では大学院はないのではなかろうか?

 学問をするつもり、真なり善なり美を追求し、その結果として古典となるに値するものを造り出そうとする覚悟はないが自らの好奇心からある対象を知りたいなら他の方法もあるということを提示するべきではなかろうか。私は大学を卒業し、社会に出てリタイヤした後に大学で熱心に学んでいる人を幾人も見たし、彼らの一部は熱心に課外にも勉強会を組織し、意見を交換し、挙句学会に足を運んでいる。(研究発表は無論ないだろうが)

 また文系特に人文系に限れば古典的な書籍が多くの人に無料で容易く手に取れる時代がもうすぐそこまで来ている。このことを考慮に入れるのなら誰に読まれるでもない紀要に論文を書くよりもブログなりで自らの論稿を提示するほうがよっぽど実り豊かではなかろうか。私も研究職を志望する身となったがそれはあくまで、真、善、美を念頭において他者に責任を負っての思索をする決意をしたまでであり、大学で奉職することにそれ程こだわりはない。また、大学の紀要論文などには一切未練もなければ評価もしていない。そもそも研究者は三人に向けて書く必要があると言われる。まず同僚の研究者に向けて、そして学生、生徒に向けて、そして民衆に向けて。

 リベラルアーツ、教養の必要は身を持ってわたし自身感じていることであるし、私の中高の同級生そして他の学生と話しても、それが現実の世界であろうとウェブ上であろうと感じているし必要としていることにも関わらず、全く日本においては重要視されていない分野であると思う。そもそも私が神学部を受験した理由は自らの信仰をより一層よきものとするためとの理由が無論第一にあるが、中高の頃から感じていた古典的なものまたその当時は認識論哲学としっかりと理解していたわけではないが、認識論の哲学とされるものまた西洋の学問を養ってきたギリシア・ローマの古典またスコラ学を神学は大事にしているであろうし、また大事にしなければ成り立たないと考えたから神学を4年間学びたいと考えたからだった。現実は見るも無残であったが。今もって不愉快なのは中高とこれほど理性的でデカルトの言を借りるわけではないがこれ以上良い教育はないと思える教育を受けていたし、その信頼がまず第一にあって上智選んだが入学早々に大学生に大学において勉強さすなどと言い放つ学長にまず私の信頼は裏切られた。未だにこの不満は解消されていないとだけはここでも述べておく。