田中耕太郎『教育基本法の理論』

  • 第五章 大学論

第一節 緒論

 大学は最上級の学校であり、そうして他の学校に対して著るしい多くの特色をもっている。それらの特色は大学が教育機関たると同時に学問の研究を使命とすることに由来するものである。
 我々は大学の制度的な考察に先立って、大学の理念(または本質)を検討しなければならない。p719

とりあえず理念、理論的な考察を先にしないとだめ。

大学の理念の問題となってくると、それは根本において哲学的性質のものであり、またさらに国家や政治の哲学にも関係してき、勢い論者の主観的傾向が強度に反映してくる。のみならず国家内における大学の地位、大学の国家に対する関係のごとき、とくに民主国家と全体主義国家―ファシストであれ共産主義であれ―という政治体制の差異に従って異なってくるのである。我々が教育の理念に冠して論じてきたところと同様のことが大学の理念に関してもいわれ得る。大学理念論は多分に哲学的政治的傾向によって影響されることを免れない。本章においてのべるところは、私自身が正しいと信ずる観点に立ってのことであり、ちがった哲学的、政治的見解をとる人々からの承認を期待するものではないのである。 p720

田中耕太郎は私の認識する限り、自然法論者。

現在わが国において大学生の学外における公安事件の犯罪容疑を理由とする学生の逮捕問題に関連して、大学自治の問題が世人の注目をひきつけている。しかし大学自治の問題はわが官立大学においてすでに明治時代から種々機会において問題とされてきたことであり、最近の事件のごときは大学自治の問題としてまともに取りあげられるには適当な種類のものではないのである。我々はこの際大学の自治の本質に立ち入って根本的に検討する必要にせまられている。大学自治は厳格に擁護しなければならないが、その概念と限界を明確にしないかぎりは、自治の濫用に陥り、大学が自治を主張できないことにまで自治を及ぼすことになり、その結果大学制度の本来の姿を歪曲するにいたる虞れなしとしないのである。 p720

この文章での現代とは所謂安保騒動のもの、それと明治以来の大学自治をめぐる議論と何が異なるのか?

大学の自治は大学の理念から生ずる。しからば大学の理念は何であるか。我々はそれを明らかにするためにまず学問の何たるやから出発しなければならない。
大学は学問の研究に従事する教授と、教授から研究の成果について学ぶ学生との協同体である。この故に大学という協同体は学問を中心とするところの人的結合である。従って大学理念論の中核をなすものは学問論である。pp720-721

大学という協同体は政治社会である国家の中に存在するから、これと国家との関係が問題となる。大学はとくに国立大学の場合において国家との間に種々の問題を生ずる。大学の法的の性格や教授の身分等制度上研究を要するところのものがはんはなだ多い。とくに大学は国家内において一種の特権的地位をもっている。それが大学の自治である。大学が享受する自治の性質とその理論的の基礎が探究されなければならない。p721

大学の法人化で状況がどのように変化したのか。

大学は教育機関であるから、教授と学生との関係が考察されなければならない。p721

第二節 諸学問の協同体性

日本をふくむドイツ系統の大学において、その目的が学問研究と人間の教育にあり、その中のいずれかをも除外できないことは特筆を要しないところである。もし大学の目的が単なる研究にとどまるとするなら、そこに学生は存在するわかはなく、大学は一種のアカデミーその他の研究機関と異なるところはない。また大学において学問の研究が行われないで、単に学生を教育するだけとするならば、大学はこれを専門学校や高等学校、その他の学校と区別することができなくなる。p724

あまりに当然すぎる事実。されど今まで教授は教育を忘れ、今では学生が研究を忘れる。

一つの学問におけるある事象をとらえて掘り下げて研究すると、他の事柄との類似や差異に気づいてくる。そうすると研究者は勢い他の事象についても研究せざるを得なくなる。同様のことは学問相互の関係についてもいえる。一つの学問を研究しているとその学問だけでは十分でなく、その事項に関係のある他の学問の範囲に当然ふみこまざるを得なくなる。人生や社会の事実の多くは数個の学問の範囲にまたがっている。

いずれの学問もその対象により、またその方法によって制約をうけている。対象が同一な場合においても方法論は各学問によって同一ではない。学問は対象と方法によって分化している。世界はあるいは宇宙全体を対象とする一つの学問というようなものは存在しない。また如何に多くの学問が存在していても我々は実存全体を把握することはできない。どんなに学問が分化し、進歩してもそこには我々の認識が到達し得ない空間が残存している。その空間は漸減するであろうが、実存の内包は無限である。p728

しかし同じものを対象としまたそのものが相互に連続性をもっていることによって、それらに関する学問の間には関連が生ずる。一々の学問はそれが探究する対象の局面と方法の差異によって自主的であり、独立している。しかし学問の自主性は孤立を意味するものではなく、相互補充の関係において存在する。学問は共通の実存の上に連帯関係にあり、相互に分業的の関係や基礎学と補助学の関係に立っている。・・・従って各個の学問の自主性や独立は絶対的のものではない。

そこで一つの学問の分野を掘り下げて行くと、勢い他の学問とくにこれと隣接する諸学問の分野にある程度までふみこまざるを得なくなる。学者の学問的視野と活動の分野は漸次ひろがって行く。これは単に学問的好奇心から他の学問の畑に興味をもつというわけではなく、学問相互の内面的関連の存在の結果である。一つの学問ばかりに没頭している場合にはその学問自体を十分把握することができない。隣接している他の学問をある程度において開拓することによって自己の学問の本質や特色を一層よく理解することができる。「唯一の題目についてしか考えないように訓練された人は、その題目についてすら正鵠を得た判断を下し得ない」(ロッゲン教授)。従って西洋の学者で多くの学問の分野に跨って業績を残している人々は、単なる興味本位の学問的散歩をしているわけではなく、研究の内的必然性に迫まられた結果である。研究が多方面にわたっていることは、単なる量的の意義をもつにとどまらないで、研究の質に大きな関係をもってくる。それは研究を深く掘り下げることになるのである。学者がまず自分の専門の狭い分野から出発し、特定の問題を深く掘り下げることになるのである。学者がまず自分の専門の狭い分野から出発し、特定の問題を深く掘り下げて行くと、問題が他の学問の範域まで際限なく続いていることを自覚するようになる。pp728-729

智識は事物の異同を明らかにするものである。それは前にのべたように同一なものを同一とし、異なるものを異なるとするきわめて単純な公式に還元される。それには学者は自己の狭い専門の範囲にとじこもってはならない。我々はある事物の本質を他の物と比較することによってはじめて明瞭にすることができる。しかしそのために学者は自己の専門の分野を徹底的に掘り下げなければならない。それによって学問的視野は必然的に拡大して行き、そうして学問自体が深まって行くのである。教授は「ある事柄をすべて知らなければならない。すべての事柄についていくらか知らなければならない」(Everything of something , something of everything)といわれている。これは真の学者たるべき条件を示しているものである。ただしSomething of everything はEverything of something から出発しなければならないのであり、漠然たる智的好奇心からSomething of everything を求めるにおいては、その智識は量的、断片的に終始し、創造性を欠いた死物にすぎなくなる。pp729-730

すべての学問の間に一つの体系なり有機体なりを見出すこと、これは哲学の任務とするところである。この意味において哲学は「諸学問の学問」(die Wissenschaft Wissenschaften)あるいは学問論(Wissenschaftslehre)ということができる。
どの学問も実証的、分析的研究とともに、哲学的、総合的研究の方面をもっている。前者は局部的であり、後者は全体的である。この全体的研究は、その学問全体を問題とする。それはその学問自体の本質を考察するものである。・・・私が哲学的研究というのは、各々の学問の本質的総合的考察である。これによってその学問に関する局部的断片的な研究は、より大いなる体系にまとめ上げられるのである。p730

一々の学問がそれぞれの哲学をもっていることによって、はじめて他の学問との間の関連が生じることになる。一々の学問の範域における部分的研究は、それ自体として他の学問における同様の研究との間に何等の関連も見出すことはできない。それだけでは単なる断片の集積にすぎない。学問に志す者は研究の進展に従って全体的把握の要求をおこさざる得なくなる。それは人間の合理的精神の当然の帰結である。
一々の学問はそれぞれ自己の哲学を有することによって相互に他のものとの関連ができ、それが一層高次的な哲学、すなわち全学問の体系の一分肢として編入され、各々その地位が指定されることになる。これによってあらゆる学問を包容するところの学問協同体が成立するのである。pp730-731

学問は真理の探究を目的とする。それは自己目的であり、他の目的に手段として奉仕するものではない。技術や行政は具体的な目的が存在し、それを実現しようとするものである。それは本来限定的である。ところが学問は理性の不断の活動であり、創造、生産であり、とどまるところを知らない。それは真理への永遠の努力であり、従って非限定的である。しかし両者は相互に対立するもの、あるいは無関係なものではない。認識は必然的に行動となって発現する。認識も行動も、一つの理性の結果でなければならない。学問が理性の活動の結果である以上は、その理論は結局実際的活動に基礎を与えないではおかないのである。実際に役に立つことは学問の研究の目的ではないが、実用性の在否は学問上の主張の真偽を判断する標準となる。無益な空理空論は学問的の価値に欠けていることを自ら証明するものである。要するに理論と実際との間には密接な関係の存在が認められるのである。pp732-733