興味関心・・・

 神学に興味を持ってもらうため、ないし神学について瑣末でもかまわないから情報提供を行えたらというつもりでブログを書いている/いたのですが、あらためて考えるに、私が神学に興味を持った道筋って一般のそれと大きく異なっている気がしてならない。
 普通は宗教学であるとか心理学、哲学的な関心(高校生の抱く“宗教学”“心理学”“哲学”のイメージ)から神学であるとかキリスト教一般に興味持つのが普通だよな。なんだか、話がかみ合わないし、大学にいるとき終始違和感と不愉快さを感じてならなかった。
 誤解をされるのがいやなので書いておくのだけれど、キャンパスライフ一般は充実していたし(要するに講義以外)、幾人かの先生には個人的に面倒を見てもらえて感謝しているし、そうでない先生を個人的云々で嫌ったことは一度もない。ある人からあまりにブログできつく書くので四谷の先生方が嫌いなのだろうと言われてどうにも困った。私が嫌いなのは人ではなく彼らの講義が嫌いなのであって、個人的どうこうではない。しいて言うなら四谷の大学のカリキュラムが入学当初から終始不愉快であったということである。
 私は正直なところ、宗教学であるとか心理学あと哲学であるとか、人文科学全般に興味がない。これは今でも変わらない。あくまで私の関心は社会科学しいて言うなら政治科学がそうであって、そのために必要な準備として神学を学ぶ必要を感じたのでわざわざ四谷にまで行ったのだけど見当違いだったらしい。
 あらためて自分がどう考えていたのかトレースする。

Q1.神学をなぜ学ぶつもりになったのか?

 a.1 信仰者の知解を求める信仰ゆえに→洗礼以前の探求の延長であることはどの点においても異なることはないが、あくまでも信仰ゆえにの学び。

  この点については入試の面接の時に一番強調したつもりであるし、他の点については時間はなかったし、不合格になるのではと必死だったのでこの点しか強調しなかった気もする。

 a.2 信仰の擁護のために→信仰者に求められる行為からの必要故に。隣人愛の第一の行いは福音を求める人に知らせることであり、神愛の第一の行いは神を非難するものからの弁護である。

  当たり前すぎる事柄であると思う。批判がある場合、非を認めるのは当然であるが、誤解や無知ゆえの誤りは、誤りとした上で弁護する必要がある。具体的には以前問題になった教皇の文章(レーゲンスブルク大学での講演)について非はあるもののそればかりをあげつらってきちんとした理解に基づいての批判がないように思われたから、ただ弁護の必要は感じるものの、何が非であり何を擁護すべきなのかまた擁護するための手立てが私には備わっていなかったため神学の知見が私には必要であると考えた。この一件に関わらず信仰者は自身が信じ、希望をおくものについて常に必要とあれば説明できるように各々が各々の見合った範囲で用意しておく必要がある。

上記2点はあくまで信仰ゆえに神学を学ぶ必要を個人的な視点より列挙した。以下は理性の必要故に必要な事柄を列挙する。

 a.3 倫理学よりの要請ゆえに、つまり良心からの必要→人と呼びうるものはみな社会性を有する。それゆえ市民社会の構成要素である市民的な徳、共通善を補足する必要がある。政治学の基本は財産の保護と市民的徳の擁護にある。財産の保護は家政に属する。これは純粋な技術であり、大学で学問として学ぶものではない。であるが、市民的徳は共通善として至高善(形而上学で扱う“善”)の観点から考察、補足される必要がある。これら自然的な徳を補足するのは哲学の役割(自然神学)であり、信仰者(あくまでカトリックの立場においては)は市民的徳と対神徳とがいかなる関係にあるのか理解する必要がある。(信仰による要請。『恩寵は自然を完成する』)

 a.4 形而上学よりの要請ゆえに、つまり良識からの必要→人と呼びうるものはみな理性を有する。それゆえ人は知ることを欲する。卑しくも知的な探求者を自認する者は皆反省的な思考(reflection)を有した上で外界の諸々の事柄を把握せんとする。自身の思考に対しての反省、つまり近代的な思考を有するものが皆おこなう事柄は哲学である。日常において良識的に思考する者は皆アリストテレス主義者である。日常における行動は学習(これですら思考なしには成り立たない)か習慣によるのでなければ思考を経た上でのものである。宗教的な知識(知恵)はそれが宗教であるがゆえに日常に基礎を置く。万人に学問(哲学)は不要であるが救い(宗教)は必要である。日常的な宗教は当然ながら日常に基礎を置いた哲学を必要とする。形而上学は最も日常的な哲学である。宗教家は(それがどのような宗教であっても)日常から乖離することによって彼らの宗教性を失う。ゆえに彼らはそれがいかに困難であっても日常的な哲学(形而上学)にとどまる必要を持つ。ここで述べる形而上学とは最近においては自然神学と述べられるものであり、中世においては哲学的神学(トマス)と呼ばれたものである。

 a3,a4はa1,a2より容易に導くことができる。と同時にいかなる人も自身の行動を反省し、秩序づけんと欲する限りa3,a4の必要に同意されることと思う。中高生らしき言をもって答えるのならば、善悪とは何であり、それら判断を経た上での生とは何であるか、そもそも生とは何であるか等々が答えとなる。

 いささか青臭い答えなのは重々承知している。正直なところ問いたいのは神学は(経験)科学足りうるのか、否、科学になるべきなのかという問いである。暴論を承知で述べるが、神学は科学足りえないのではなく、あえて科学に成らずと選択すべきではなかろうか?あくまで信仰の道理を(reasonablenessであってrationalityではない)追究することを主任務とすればよいのではなかろうか?よく言われる第二バチカン公会議による教父思想の見直しとは要するに哲学的(合理的要するにrationality)から司牧的な神学への移行と私は解した。

 という青臭い側面はともかくとして、もっと専門的な要求ゆえに神学を学びたいとも考えた。特に政治学を学ぶ上での前提である哲学、また西洋思想全体像、およびその根底にあるキリスト教理解についてである。要するに私が神学部に求めた要求は二つの側面でしかない。信仰者が必然的に直面する問題要約するならば信仰と理性の一致、つまり『恩寵により完成される自然』という問題をそれを生業とするプロである神学者にカリキュラムに“従って”体系的に学びたいと考えたからであり、また自分が学問的に専門としようと欲している政治学の理解を進めるための基礎として哲学(特に自由意志論を中心として)・思想の基礎教養を4年かけて学ぼうと考えたからだ。