カテドラル 十字架と鐘

ぼんやりと教会で考えたこと。それが南の島の教会であってもビルの森の中にあろうとも、小さかろうと大きかろうと教会に対して愛着を感じる。と同時にそれがひどく脆くてはかないものにも感じられる。

空間に感ずる愛着

同じものを見ていることによって安堵感と共感を感じる。それが仮に写真であっても、わたしが見るのは撮られたもの、被写体であると同時にそれを撮影した場所、空間である。その写真をとった場所を知っていることにより、わたしは被写体と撮影者の間の空間を認識する。そこにあるのは平面ではなく立体的な空間である。
しかしながら、その愛着はその空間から切り離されて初めて理解されるものである。id:rairakku6さんがブログに掲載する写真に強い共感と愛着を覚える。写真に撮られた風景、そしてその場所、運動公園、植物公園、広がる田んぼ、八幡川、五日市駅、区民文化センター,etc.すべて今までの生活圏の内側にあるものだ。全く同じものをわたしは帰省した際に見たはずであるが、何らの愛着を覚えず、関心をひくこともなかった。
なぜか?それは現在の生活との対比をしなければ意識できないものだからである。東京ではrairakku6さんが撮る写真にあるような、山・海(瀬戸内海)・空がフレームの中に一緒に納まることはない。東京においては海を見ると山が見えず、山を見ると海が見えない。東京湾を挟むことで同様な構図を得ることはできそうであるが、実際にそこで見たのと広島のそれとはやはり与える印象が異なった。
広島出身の東琢磨も『ヒロシマ独立論』の中で同様の趣旨のことを述べている。

現在でも、広島で生まれ育ったものには、川が流れ、山が見えて、海も望めるような場所でなければ落ち着かないという感覚があるようだ。(p13)

写真を見ることにより感ずる愛着は何であるのか?
まず初めに写真を見て感じるのは、その場所を知っているという喜びである。それは自らが過去にそこに存在したということ、思い出を想起する。次いで、その写真が撮られた時、場所に意識が向かう。それは撮影者に対してである。それがどのような方法であれ、写真には必ず撮影者が存在する。そして撮影者にたいしての共感は写真により切り取られた空間、つまり現在―写真が撮影された時と場所―にたいして向けられたものと同じである。考えてみると良いだろう。自らのよく知る風景が移された写真を異国で見たとして、初めに感ずるのは思い出であり、それはつまり認識である。次いで感ずるのは安堵と自らの属した空間が‘ある’という意識、つまり存在である。そして最後に感ずるのが、それが近い将来、自らがそこにおも向いて同様の写真を撮ることのできるという予感と期待である。つまり、愛着は過去・現在・未来が意識されることによって想起される感情であり、それらのいずれかを欠くことがあっても起ることではない。
しかし、この愛着はあくまで認識に属するものであり。存在ではありえない。なぜなら写真に撮られたものと過去にわたしの見たものは時間の流れでわたしの思いとは無関係に変化する。山でさえも風雨により変化し、樹木もまた四季を経るごとに変化する。当然ながらわたしがいつか見ることになるものも写真により切り取られたものとは違うものだ。
このことが意味するのは愛着が人間の意識、想像に属しているということである。そのため、異国の写真、それは当然ながら生活圏にはないものであるを見て愛着を覚えることも可能である。そのために必要なのは写真から自らの属した空間を思い起こし、それを写真に重ね合わせ、それが将来においても存在することを希望する事である。つまり、愛着とは人間の認識、記号化、象徴化能力の産物である。
記号化、象徴化の最たるものである言語も写真と同様の働きをする。それは人に過去・現在・未来を想起させる。

撮影者のいない写真

受肉と復活

続きは後で書きます。