科学史からキリスト教をみる

第一回 近代科学の成立をどう捉えるか


科学革命

多くの場合近代科学というのはこの科学革命を経て成立したのだというのが大体の大まかな道筋として了解されております。
基本的にはこの十六世紀半ばから一七世紀末までの約150年間を科学革命ということになります。
ヨーロッパはそれまで自然についての説明体系をもってきたわけですけれども、それらはヨーロッパが独自に生み出したのではなくて、結局は古典ギリシャあるいはローマあるいはそれを引き受けたイスラムあるいはビザンツといったような、先行する諸文化圏の中で採用されてきたさまざまな説明様式を、そのまま受け入れてきたことへの革命がこの時期に起こった。コペルニクスからニュートンまでの人々の努力の結果として伝統的な説明体系が、新しい近代科学によって置き換えられたのが科学革命であるというわけです。
ヨーロッパが独自に自分たちの手で初めてオリジナルに作り上げた自然についての説明体系が、すなわち近代科学であって、そしてその近代科学を引っさげてヨーロッパはいわば世界史の中に初めて主導権を取る形で躍り出た。
十六世紀、一七世紀の近代科学革命を経て初めて、ヨーロッパが独自に自分たちの産物として作り出した近代科学を土台にして初めて、その独自性によってヨーロッパは世界の主導権を取ると同時に、価値としての近代というものを生み出した。
科学革命論の問題点
われわれの科学はそのまま真っ直ぐこの近代科学に繋がるものであると考えるという点、そこには非常に大きな誤解がある

1536年11月1日ローマ教皇庁にて、という手紙がございます。カプアの枢機卿ニコラウス・シェンペルクという人がコペルニクス宛てに書いた手紙です。
「数年前すべての人が異口同音にあなたの才能について私に語ってくれましたのであなたのことをもっと良く理解したいと思い、またこれほどまでにあなたの栄誉を称えている私どもにおいても祝辞を申し上げようとする次第であります。私の理解したところではあんたは古代の数学者たちのさまざまな発見を見事に良く理解していらっしゃるばかりではなく、宇宙について新しい理論を打ち立てられました。・・・また天文学のこの理論全体についてあなたによって注釈が書き上げられ、さらに小惑星の運動を計算してあなたが表におまとめになり、蛮人のこの上ない賞賛を博されたことであります。」
当時コペルニクスはフロンボルクという現在のポーランドの北の街での司教座聖堂に働くカノンと呼ばれる存在でありました。彼は医学も勉強して病院の経営もやっておりましたし、フロンボルクを中心とする司教区の教区の経営にも携っていた大変有能な人物だったようでありますが、そのフロンボルクにいたコペルニクスを、教皇庁がどれだけ認めていたかということ、お金がなかったらわれわれで持ちますから、早くあなたの新しい説を発表するように、というそういう奨揚の手紙というのがこの手紙の本質であります。