世論

政治の中で理性に従うことはむずかしい。…理性が鋭敏で特殊な力をもつようになるまで、直接的な政治闘争は本能的な知恵、力、証明不能の信仰を大量に必要としつづけるであろう。このような生命現象はあまりにも未分化であって理性の解析力が及ばないため、理性はそうしたものを規定することも統制することもできない。社会科学の方法は完成にほど遠いので、多くの重大決定、大部分の日常的決定において、いまなお直感が促すまま運命に賭けるしかないのだ。(p281)

われわれは理性への信念をこのような直感の一つとすることができる。われわれの知恵や力を用いて理性への足がかりをつくることができる。われわれの捉えた世界像の背後に事件のもっと長い経過を展望しようとすることができる。そして、さし迫った現在を逃れられる場合はいつでも、この長い時間によって決定を制御させる試みも可能である。しかし、このように未来を重視しようというつもりでいてさえ、われわれは、理性の命令に従って行動するにはどうしたらよいかを自分たちがはっきり知らないでいることを繰り返し悟る。人間が抱えるている問題のうち、理性が指図できる準備が整っている問題の数はわずかである。(p281)

理性のみごとな模造品が存在する。それは、もっと友愛に満ちた世界を望んでいるのはわれわれ群居性種族にあっては自分ひとりではないという自己認識と、議論の余地のない信念から生じる博愛精神の中にある。…われわれは、どんな場合にも善意が働いていることを証明するわけにはいかないし、なぜ、憎しみ、非寛容、頑迷、秘密、恐怖、嘘が世論に敵する七つの大罪なのか、そのわけも証明できない。ただわれわれに言えることは、そうした七つのものが理性に訴える立場にはないこと、かなり長い間には毒になるということだけである。われわれ自身のいかなる状況やわれわれ自身の生命を超える世界観に立てば、われわれはそうした七つの罪に対して心からいまわしと思う気持ちを抱くことができる。(p282)

もし、恐怖心や狂信のなすままに深く傷つけられて怒りつつ一切を投げ出してしまうようなことをせず、人間の未来が信用ならないからと長期的展望に関心を失うようなことがなければ、その気持ちをいっそう大切にすることができる。そんな絶望には根拠がない。なぜなら、ジェームズが言ったように、われわれの運命がかかっているすべての「もし」は、過去にもそうであったように現在も可能性に満ちているからだ。(p283)

人間が示してきた何らかの人間の特性によって存在が許されている、さまざまな可能性を断念することはできない。読者諸氏はこの十年の間に起こったあらゆる凶事のただ中にあっても、こんな人たちをもっと増やしたいと思うような男や女を見たであろう。こんな瞬間をもっと増やしたいと思うような瞬間瞬間を経験したであろう。もしそうでなかったら、神といえども諸氏を救うことはできない。(p284)

ほかの多くの問題においてもそうであるが、ここでも“教育”は最高の良薬であるには違いない。しかしいま見たように、この教育の価値は知識情報の伸びにかかっている。そして人間の諸制度についてわれわれが知っている内容は、いまなお法外に貧困で、印象に偏っている。社会的知識の収集は全体的にいまだ組織化されていない。しかも、情報収集はその究極の目的のためになされることはないと思ってよいであろう。情報収集がなされるのは、現代の意志決定にそれが必要とされているからである。だが、収集がなされるにつれて資料が大量に蓄積されるから、政治学はこれを一般論に変え、学校用に概念として捉えた世界像につくりあげることもできるであろう。そうした世界像がかたちになるとき、市民教育は目の届かない環境に取り組むための準備になりうる。(pp270-271)

社会機構の実用モデルを教師が使えるようになればそれを利用して、なじみのない事実に対してどのように自分の頭脳が働くか、生徒に鋭い自覚をもたせることができるだろう。教師がこのようなモデルをもつようにならなければ、将来出会う世界に万全の備えのある人たちを送り出すおとは望めない。教師にできることは、人びとが自分自身の頭にもっと大量の知恵を仕込んだうえでそのような世界と取り組めるように育ててやることである。たとえば、自分の読んでいる新聞の中で、特電の発信場所、通信員の名、通信社名、その記事の根拠、記事が入手された状況を読み取るよう教えることができる。教師は生徒に、その記者が自分の目で見たことを書いているのかどうかを考えてみよ、そしてその記者が過去に他の事件をどのように記事にしているかを思い出してみよ、と教えることもできる。検閲というものの性格、秘密保持という概念を教え、過去の宣伝に関する知識を与えることもできる。歴史を適宜用いてステレオタイプの存在に気づかせることもできるし、印刷された言葉によって呼びさまされる心像について内省する習慣をつけさせることもできる。比較史や比較人類学の課程では、規範がいかに特殊な型づけをするかを生涯忘れないでいるように仕向けることができる。教師は人びとに、寓話を作っている自分、諸関係をドラマ化している自分、抽象的なものを人格化している自分自身に気づくよう導くことができる。教師は生徒に、生徒自身がこうした寓話にどのようにして同化するか、どのようにして関心を抱くか、もっている意見の性格により、どのようにして英雄的な態度を、ロマンチックな態度を、省力的な態度を、選ぶかを示してやることができる。(pp271-272)

錯誤の研究は最良の錯誤予防法であるばかりでなく、真理の研究へ導く刺激としても役立つ。われわれの心が自らの主観主義をされに深く自覚するようになるにつれて、われわれはその自覚がなければ見出しえないような客観的方法に強い関心を抱くようになる。ふつうなら目に入れるはずもないのだが、われわれは自分の偏見がもたらす途方もない害や、気まぐれな残酷さをはっきりと見る。偏見を打ち砕くことはわれわれの自尊心に関わってくるために、はじめは苦痛であるが、その破壊に成功したときは大きな安堵と快い誇りが与えれる。注意の及ぶ範囲がいちじるしく広がる。現在の範疇が解体すると、頑固で単純な世界は砕ける。舞台は転じていきいきと豊かになる。ついで科学的方法を心底尊重するような感情的刺激が生じる。しれが他の状況ではなかなか呼び起こしにくいものであり、ずっと維持していくこともできない。偏見を生じさせる方がはるかに楽だし興味も大きい。なぜなら科学の諸原理をあたかもこれまでつねに受容されてきたかのように教えるならば、一つの学問として一大特長、つまり客観性というものによってこうした原理は退屈なものにされてしまうからだ。だが、まず最初にこれらの原理を頭の中にある迷信に対する勝利として教えてやるがいい。そうすれば生徒は追跡と征服の快感に導かれて自分自身の狭い経験から踏み出し、自分の好奇心が成熟し自分の理性が情熱を獲得する状態への転移を、あのむずかしい転移を果たすかもしれない。(pp272-273)

目の届かない事件に対する共通見解、別々の行動を測る共通の尺度を確立する方法はなかった。その間じゅう機能していた唯一の民主主義のイメージはアリストテレスの有名な言葉によれば、視力の限界が政治能力の限界であるような人たちの孤立した共同社会に基盤をおくものであった。理論においてすらそうであった。
…シカゴ市民は住持のアテネ市民と同じ視力しかないのに、はるかに遠くまで見聞きすることができるようになっている。…思い描かれた環境と現実の環境とのずれを少なくすることは今日でも可能である。だが、いまより多くの労力がそこに注入されたなら、さらにその可能性は増すであろう。そうなったら連邦主義はますます同意に基づいて動くことが多くなり、強制力によって動くことはますます少なくなるであろう。連邦主義はさまざまの自治集団を連合する唯一可能な方法であるが、連邦の諸問題が正しく捉えられ、共通に受け入れられる観念に基づいて結ばれた連合でない場合、かならずその連邦主義は帝国主義的な中央集権制か、さもなければ偏狭なアナーキー状態に向って揺れる。こうした諸観念は自然に生じるものではない。それらは分析を踏まえた一般化によって統合されねばならない。そうしてそうした分析の手段は調査研究によって案出され、試されなければならない。(pp255-256)

いかなる選挙方法を工夫しても、地域的操作をしても、財産制を変革しても、この問題の根柢に達するものではない。政治的知恵は現に人間の内にある以上に人間から引き出すことはできない。限られた個人的経験に基づく人間の意見は主観的である。これを克服する道を意識的に用意しない改革はいかにセンセーショナルであっても、真に根本的なものとは言えない。ある種の政治制度、投票制度、代議制度は、他の制度に比べて、より多くのものを引き出している。
しかし結局のところ、情報は良心からではなく、その良心が関わっている環境からもたらされるはずだ。情報の原理に基づいて行動するとき、人は外へ出て行って事実を見つけ自分の知恵をつける。情報の原理を無視するとき、人は自分の内にこもり、内側にあるものしか目につかない。そうした人間は知識を増やさずに、自分の偏見を育むのである。(p256)