哲学塾 共生から川本隆史 (1)

  • 第一日 「共生」の両義性

 これから本格的に始めていくのですが、このエントリひとまず、六月の中旬までにまとめたいと考えています。ですので、一日ごとに一章取り扱えればよいのですが、バイトやら色々あるため予定どおり進むかはわかりません。
 先日のエントリでも書いたように、ここでは著者に何らかの応答を試みてみるというスタンスを取ります。 

ほんとなら出席者の皆さん一人ひとりに「どうしてこのレクチャーを聴く気になったか」をうかがってから、スタートを切りたいところ

この質問には或る程度昨日のエントリで答えることができたかと思いますが、もう一度私の持っている問題意識を短く示すことにします。
昨日私は、自分の初めてのレポートを引用しながら、自然法倫理学などいわゆる堅い単語を中心にした文章を書きました。川本氏に倣って噛み砕いて書くと、「皆が喧嘩をせずに、幸せに一生を過ごすにはどうすればいいか考えたい」これが私の願望、目指すものになります。そしてその際に重要なのが、自律、自尊と協力、承認です。私は中学生の頃に読んだジョン・ロックの『市民政府論』にひどく感銘を受けました。生涯で初めて手に取り読みきった古典だったからかもしれませんが。あまり私ばかりが話しても仕方がありません。川本氏の話に耳を傾けることにします。

まず、第一日目に川本氏が何を述べたか引用しておきましょう。

初日は「共生」ということばに私が出会った経緯を振り返りながら、それが少なくとも二つの意味を合わせもっていることを確かめ、さらに共生ブームやそれに便乗した言説の氾濫に疑問符を付けておきました。でもこの単語がこれほど多用されるようになった背景には、ある種の切実さもしくは時代のニーズが控えているだろうことも否定できません。

この引用から幾つかの?(はてな)が浮かびます。
川本氏はどういう経緯で「共生」ということばに出会ったの?/「共生」ということばが少なくとも持つ二つの意味って何?/共生ブームや言説の氾濫になぜ疑問符が付くの?/「共生」という単語が多用されるようになった背景にある切実さ、時代のニーズって何?

この講義(本書)で「倫理学」というくくりを避け、「共に生きる」とした狙いを次のように述べます。

「共生」という文字づらがかもし出す何やらほんわかしたムードにもたれかかることなく、そこに伏在している複数の異質なモチーフを読み分けていくことです。

ここで、川本氏は、複数の異質なモチーフを読み分けていくのにオーソドックスな、つまり大学の講義でのようにプラトンの書籍では〜〜〜というような方法を本書では使っていません。

いわゆる「哲学」の転籍を直接引き合いに出して、これに注釈を加えたりするようなオーソドックスな講義形式は、私の性に合わないのです。

では、この講義ではどのような方法が用いられているのでしょうか?

ときには私の経験をお話したり、私が「共生」を考え直す手がかりになった文章を読み上げたりといったポリフォニックな(「多声的」と言えば格好よく聞こえるかも知れませんけど、「ごった煮的」ということでもあります)語り口を活用することになるでしょう。