哲学塾 共生から 川本隆史

共生から (双書 哲学塾)

共生から (双書 哲学塾)

  • book reviewについて はじめに

 「book review」なるカテゴリーを新しくつくりました。今までも、書籍からの抜粋や引用はおこなってきましたが、それと何が違うのかと少し考えてしまったのですが、“review”を単なる読書感想文や書籍の紹介にしていたのではあまりに芸がないし、何より書いてるわたしが面白くないので、次のように考えました。幾らかでもその書籍から問題意識を拾い、その問いに対して何らかの応答をするのがよいであろうと。
 通常、読者と著者の間で意見の交換をおこなうことはできません。地理的に、時間的に隔たっているのが普通です。本を読む際は、それがどのような種類のものであろうと、いつも一種の片思いと言えるでしょう。
 古典であれば書き手は既に天に召されているでしょうから、自らがどのように読んだかそれを伝えることはできないでしょう。書き手が仮に健在でも一読者がどのようにその本を読んだかを伝えるのは困難です。これは今でもあまり変わらないでしょう。しかし、ながらインターネットのおかげで、webを通じて一読者の意見、感想を伝える新たな方法が生まれました。無論、手紙や直接著者と会ってそれらを伝えることは今でも可能ですが。
 ですから、book reviewで扱う書籍は、最近の書籍に限りたいと思います。

  • 本書の構成

まず何から書くのが適当かと考えたが、読む本の全体の構成を把握するのが先決だと考えた。本書は、岩波書店から刊行された『双書 哲学塾』の一冊である。
本書あとがき(151項から)に次のようにある。

〈発見と脱線のある入門講座〉というキャッチ・コピーのもと昨年九月に刊行が始まった双書「哲学塾」だが、前宣伝の段階でも全十五冊ラインナップのどんじりに据えられていたのが、この『共生から』である。 151項

本書は大きく二つの部分に分けることができる。前半部『講義の七日間 共に生きる』と後半部『補稿 人間の権利の再定義―三つの道具を使いこなして』の二部である。
本書あとがきでも

この小さな本は、『新・哲学講義6 共に生きる』(岩波書店、一九九八年)のイントロ講義(「共生ということ」)と『新・哲学講義 別巻 哲学に何ができるか』(岩波書店、一九九九年)に寄せた「人間の権利の再定義―三つの道具を使いこなして」の二作品を原型としている。 152項

とあるので、前半部と後半部を個別に何が論じられているのかと同時に前半部、後半部で共通して述べられていることは何なのかを念頭において私は本書を読んだ。以前『本を読む本』に関して述べた際に言及したかと思うが、私は古典以外の作品はすべて、タイトル、目次、まえがき(序説・序章)を読み、あとがきを読んでから本論部を斜め読みすることにしている。それで、熟読に値すると感ずれば、それから鉛筆とコーヒーを用意して作業に取り掛かる。

目次を以下に引用しておきます。

講義の七日間 共に生きる
第1日 「共生」の両義性
第2日 孤独と共生
第3日 ケアと共生
第4日 教育と共生
第5日 臨床と共生
第6日 エコロジーと共生
第7日 「あなたを苦しめているものは何ですか」
補講 人間の権利の再定義―三つの道具を使いこなして

文献
あとがき 

  • 哲学の入門書に関して

私は本書以外に双書『哲学塾』として刊行された書籍を読んでいない。もとより、哲学書に関する限り、私は入門や概説などといった書籍や講義がダイッ嫌いであり、またそれらが哲学にとり薬より毒になるほうが多いと考えているので必要に迫られるぬ限りは読まないこととしてきた。何よりも、原典、たとえそれが邦訳であってもを読みこなすのが重要であり、古典的な書籍が何よりも優先されかつ尊重されねばならないと考えるからでもある。

入門と銘打っていても私はその書籍を書き手の名前で読むこととしている。たとえ書籍の中での言及や引用であっても他者の語りを通して書き手が話している、書いているという事実を忘れてはならない。そのため、私は著書の立てた問い、方法、文体、結論に言及するが、その引用された人物、文献には言及をなるだけ控えることとする。無論、引用されている文献を自らが読まぬのに言及するのは何よりも日頃自分に課しているルールに違反することになるし、少なくとも学問を大学で学ぶ人間がやるべきことではない。また、引用された文献を同様に読んでいたとしても、その引用のされ方、解釈についてこまごまとここで時間を割くのは何より無駄だとも考える。

こうして考えたとき、入門や概説などといったものに関して書かれたものが哲学に関してはどれほど不毛かが理解できる。著者と或る程度読書経験を共有する人間にはそもそも入門の体をとって書籍など書く必要はなく、早々に問いを提示し、方法に関しての議論をしながら結論をどのように導くか読者と著者が熟考できるようにすべきである。それに対して、入門者に書籍や概念の紹介を目的とした書籍は読者に無用な混乱を与えると共に、入門書を読むだけで彼らの体力と気力を消耗させ、本来の目的である入門書での引用文献、紹介された文献の猟渉にまで導くことができない。必然的に、著書の提示したアンソロジー的な引用から受ける先入見と著者の意見の混濁物のようなもので満足してしまう。

私は大学において、またwebにおいて見られるこのような概説、入門書、講義の振りまく害悪に閉口してしまう。ある講義を受けるたびにふらふらと見解を翻す学友など見ていると特に悲しくなる。また、原典を読みきることはおろか、開きもせずにその書かれたものを批判するのを見るとやるせない思いになる。そしてこれらの害悪を放っておくばかりか、自らその原因をつくり出している、大学の関係者にひどく腹が立つ。もとより備わっている自然理性を不具にし、問いを立てることを禁じ、他人の前提と方法を採用させるのが大学の初年次、教養科目でおこなわれる教育である。昨今はより露骨にそれらが初年次教育、FDなどと下らぬお題目と共に行われているのは非常に悲観すべきだし、憂慮すべき事柄である。

  • 共同体(国制)と教育に関して 公民教育に関しての考察

 まず、著者の川本隆史氏に関してなのですが、現在東京大学教育学部で西洋教育史を教授されています。私はロールズの研究者として名前を知る程度で、昨年の12月にケアの社会倫理学―医療・看護・介護・教育をつなぐ (有斐閣選書)をようやく読んだだけでした。今回の『哲学塾 共生から』が書籍としてまとまった川本氏の考えに触れる初めての機会になります。ロールズに関しては、Lectures on the History of Political PhilosophyPolitical Liberalism (Columbia Classics in Philosophy)が積み本状態でほったらかしです。

 本書は、たまたま講演会の際に頂いたもので、以前より倫理学に興味があったのでお話してみたいと思っていたのですが、偶然にもお話しする機会が得れ、その上書籍までいただけ非常に嬉しかったのですが、時間に限りがありあまりお話しすることができずその点非常に残念でした。書籍の感想などメールを差し上げてもかまわないとのことでしたので、こうしてブログのエントリを書いています。
またこうして今回まとまった文章を書く必要を感じているのには理由があります。まず第一に私の関心事が、川本氏が本書で提示している問題と多くの点で重なり合うからです。何より本書で私が以前から問題にしてきたジャック・マリタンの名を目にすることになり非常に驚いています。以前からのブログの読者の皆様には耳にタコでありましょうが、私が現在問題にしているのは、新しいスコラ学、つまり学校での学問に関してです。そして、中学生のときに初めて読みきった古典であるジョン・ロックの『市民政府論』から多くのものを得て、法哲学の問題意識から自然法、そしてカトリックの神学を用いての国家論、公法学に関しての問題、これは取りも直さず公共の福祉を論ずることですが、に対して何らかの応答を試みたいとの願いを持つ人間にとっては、本書は非常に示唆に富むものでした。

 なお以下において、川本氏が本書で提示する『共生』に対しての応答とあわせ、教育学研究での教育への言及(http://ci.nii.ac.jp/naid/110001175711/)について述べていきます。

    • 問題意識 倫理神学および政治学について

 以下の文章は私が大学に入って初めて提出したレポートが基になっています。昨年の前期に受講した倫理神学の講義の際に提出したレポートです。
まず作年私は、はじめにとして以下のようにレポートを書き始めました。かなり恥ずかしいのですが一字一句変えず引用します。

今回の論説の目的は後に書くことになる二本の卒業論文に向けた小さな一歩とするためである。
3千字前後と文字数に限りがあり、卒論の方向を示す目的に加え、筆者の力不足もあるため論が散漫でかつ各所で破断していることを先に断っておく。

ここで述べている二つの卒業論文とは、所属学科で書く神学の学士論文と国際関係副専攻での政治学の論文を意味しています。今思えば、大学に入ったばかりの人間がこの書き出しでレポートを書くのはどうなんだろうかと思いますが、今もここで書いてること考えてることに基本的なぶれはありません、更に言えば、ここで持っている問題意識は大学入学以前から引き継いでいるものでもあります。ぶれがないと言えば聞こえはよいのですが、見方によっては進歩や成長がないのかもしれません。

次いで論点として以下のように書きました。

論題は大きく分けて二つである。一つは、倫理神学における問題であり、もう一つは政治学においての問題である。政治的な問題を扱うにあたり、倫理学上の問題を前提としてすえることは、アリストテレスの次の言葉からも妥当なものであるといえる。
 …したがって、「人間というものの善」こそが政治の究極目的でなくてはならぬ。まことに、善は個人にとっても国にとっても同じものであるにしても、国の善に到達しこれを保全することのほうがまさしくより大きく、より究極的であると見られる。けだし、もとより善は単なる個人にとっても好ましきものであるが、もろもろの種族やもろもろの国にとってはそれ以上にうるわしく神的なものなのだからである。われわれの研究はこうしたことがらを希求するものであり、この意味でそれは一種の政治的な研究だといえよう。 「ニコマコス倫理学」 アリストテレス著 岩波文庫 p17
神学上の問題および政治学における問題はそれぞれ個別の論文で扱うこととなる。

 お前はただアリストテレスから引用をしてみたかっただけだろうと今なら批判できるのですが、この時点ではアリストテレスの『政治学』もプラトンの『国家論』もトマス・アクイナスもアウグスティヌスも出てきません。当然です、読んでないのだから。
 さてひ弱な筆で私は以下のように倫理神学の問題を提示しました。

自然法および自然理性とそれに伴う「自由」を人間に認める立場に立つ場合、人間が躓きやすく、放縦な要素を内存した不確かで不十分なものであることを前提としなければならない。それはとりも直さず、信仰の前提ともなる考え方であり、このことから人に独立した人格を認めるデカルト以来の個人主義の立場は信仰と不可分な関係にあることが理解できる。倫理神学における大問題は信仰の前提を失った個人および個人主義を再び信仰の光の下に招き入れることである。

この時点では、いや現時点でもですが、私は明確に『自然法』『自然理性』そして『自由』を定義できていません。と同時に上記で挙げた問題が、アウグスティヌスに始まる西洋思想史における大問題でもあることなどはっきりとそのときは理解していませんでした。この問題は、神学特に教義、ドグマに関しての神学上の議論、つまり『原罪論』『恩恵論』『自由意志論』などに深く関わっていること、また宗教改革においての焦点の一つともなり、17世紀にはジャンセニスムイエズス会との間に激しい論争が起こっていたことなど知れば知るほど、扱うべき事柄、文献、先行研究が膨大になっていきとてもじゃないが私の力でどうこうなる問題ではないのではないかと疑念ばかりが強くなります。

私はレポートにおいて二つのアプローチを提示しました。一つはイギリス経験論哲学の系譜と自然神学による自然科学の見直しと、もう一つはアダム・スミス道徳感情論』の「同感」および「適宜性」の見直しと、アダム・スミス自体の持っていた自然神学の見直しの二点です。

私はレポートを今後の課題という形で結びました。課題と述べているように今回のレポートではすべてを論じ切れていません。そして、このレポートを書いた時点での問題意識のまとめとなっています。

自然神学についての理解を深めると共に、自然科学の神学的な理解を深めること。
上記の神学理解を前提としアダム・スミスの論考に対する理解を進めること。
スミスの議論を踏み台とし、倫理学の体系をいくばかりでも構築すること。
上記の体系を前提とした。国際政治における政治的枠組みの構築を目指すこと。
以上の4点である。

私は幾つかの点でこの方向付けを変更しました。ですが、「自然科学の神学的な理解を深めること、倫理学の体系をいくばかりでも構築すること、国際政治おける政治的枠組みの構築を目指すこと」に変更はありません。無遠慮に書くのであれば、変更は放棄や削減を意味せず、追加と複合を意味しています。私が以下で記そうとするのは基本的には、ここで記したことの延長上にあります。そして私がわざわざこのとるに足らない貧弱な言説を持ち出したのは、今の私に対して、そして読者に対して基点を明らかにしたかったからです。