セルフイメージとセルフポートレート

藝大生の自画像―四八〇〇点の卒業制作

藝大生の自画像―四八〇〇点の卒業制作

読み終わった。

 本書を購入した目的は、他の人の書いたブログのエントリを読んでいたら松井冬子が気になり、昨年の夏帰省していたときにたまたまテレビで見たNHKの番組に松井冬子が出ていたことを思い出したのでというのがまず一点、二点目はなにやら考えたのだけど昨年は実家にいたこともあって脳みそが思索モードになっていなかったのであらためて何か考える必要があると感じたから。
 本書は昨年私がたまたま見たNHKの番組の取材が基となっている。取材された東京藝術大学の自画像コレクションは同大学が120周年の記念として展覧会を行うため一般に公開された。なお、私は残念ながら夏死ぬほど忙しかったため展覧会が無料にもかかわらず足を運ぶことができなかった。
 明治期から一時的な中断をはさみながらも平成まで続く『自画像』というテーマに対してどのように学生が向き合ってきたのか丁寧な取材から描いてみせてるので番組として非常に面白かったと記憶しているし、昨年もそう記していた。

 「Who are you?」として次のように書いた。(2007/8/20)

昨晩NHKのETV特集を見る。内容は東京藝術大学卒業生の自画像を通して日本の近代史と自我のありようを眺めたもの、と私は解釈したけど。藝大では卒業制作に自画像を課すっておもしろいね。しかも大学側が買い取って永久に保存してくれるらしい。卒論ってどうなるんだろう。とりあえずここのブログで進行状況含め私の卒論曝すことは約束しとくけど。
でも見てておもしろかった。時代背景と描き手の個性がキャンバスの上でごった煮になってるのは。あと、画家って面白くてバイタリィティがないとやってけないんだろうなとも思った。

 私がこの番組を見て興味を持った、というよりもむしろ印象に強く残った人物は、松井冬子村上隆、あと戦後入学した女性の美大生“たち”だった。他に関しては全然印象に残っていない。あらためて本書を読み直しても興味を持たなかった。
 
 番組の構成もあるのかとは思うが、番組は明治から始まり、芸術(この場合は特に西洋)を以下に受容するか、その際たるものとして近代人の確固たる前提となる自己をどのように描くかという、howの問題、そして汝は何者かという、描かれる対象、whoの問題、その両面を描き手がこの場合は人間個々人、シグニチャーをする一人の人としてまた当時の社会状況に置かれた社会的意味での人間、アリストテレスの言う社会的(ポリス的、関係的)動物としての人間が如何に向かい合ってきたのかを時代の変化を追いながら現代まで描いてみせるのだけど、その中で描き手と描かれたものを同時に俯瞰して描くので向かい合わせた鏡の像を、延々と連続する像を見ているようで面白かった。
 ここで問題になるのが、自画像という特性上、描く対象と描くものが全く同一な点である。同一と言う際に注意が必要であるが、この際の同一とは哲学者の筆で記すなら存在という意味で同一と言うことである。
 存在としての同一性とはどういうことなのか?つまるところ、自画像として、それがどのような技法であれ、作品として評価されために創りだされたものと創り手たる自己は果たして同じなのか?自らを描く、ないし広く創ることが課題である以上非常にもどかしいこの問いに答える必要がある。哲学者にとっては思弁する自己をどのように捉えるか、また思弁の対象としての自己をどのように記すのか?という愚直であるが古典的であり、また難題でもあるわけだが、この問いに対して芸術家が(ないし芸術家の卵が)どのように答えてきたのかを見ることができるという意味でこの自画像のコレクションは非常に好ましいものであると思う。
 私は独自性により頼んで、つまり自らの才で自らの哲学、画風とでも言おうかを作れるなどと思ってはいないので遠慮なく先立つの画風を真似ることとするが、つまるところデカルトの「我思う故に我あり」とするのであって、描く私が私であるとでも言おうか、しかし、これは残念ながらというべきは相当の勇気を必要とする、というよりむしろこのような言葉を投げられても心底納得しなければ何の解決にもならぬことは明々白々である。
 どんなものであれ描けばそれが自画像だなどと言ってるも同じと捉えられても仕方がないからである。
 芸術が何を目的とするのか、またその駆動概念は何かと考えたときそれは恥ずかしげもなく(恥ずかしげもなく何かを表現することは哲学者にしろ芸術家にしろまず初めに求められる悪徳の一つであろうが)「至高の美」であると述べることができるであろう。真善美は典礼の土台であると述べられるように信仰の土台の上に建てられた屋台骨のようなものである。
 なお、真を取り扱うのは現在では自然科学者であり、善を取り扱うのは人文学者である。芸術家が美を基底概念として活動しているというのは議論の余地のないことと認めるにも関わらず、なぜだか知らないが最近では人文学者達が自らに人文“科学”者なる不快な名前を冠し、真理の探究をしているとのたまうので私は大学において不快で仕方がない。このような至高善、共通善にかなわない不愉快なこの振る舞いを本来人文学者はとがめるべきであるが、なぜかこのような悪徳が大手を振ってまかり通るのが現在の大学である。心底不愉快だ。何時から大学人、特に本来人文学を取り扱っているはずである人物にも関わらず科学者のような口を利くようになったのであろうか、曰く『真理は相対的だ。』曰く『これは私の取り扱う範囲ではないので不明だ。』と。科学者のつかむ真理は永井博士他多くの自然科学者が述べるように部分真理である。このことは何ら科学の価値を下げるものではない。であるが、善は真理とは違う。どちらも神に属する概念であるが、人文学者の対象とするのは神の管理される自然ではない。同じ被造物であっても神から外れたが故の特性を主な構成要素とする人間を考察の対象とするのだ。当然ながら形而上学や神学を取り扱うものが、それこそ聖トマスの述べたように、私の行ったことは取るに足らないわらクズのようだとするのをとがめるものではないが、そのようなこの場合、神の似姿としての人間を考察の対象とするものは善と同様、真も取り扱うことになるが、これには天賦の才を要求する形而上学か、神の特別の啓示と恩寵を前提とする神学のいずれかを行うものだけに許されるのであり、凡才であり、明確な啓示と恩寵を受け、しかもそれを理性により思弁するよう明確に求めでもされない場合にはあくまで人文学者は逸脱としての悪という特性と故に必要とされる善を考察の対象とすべきである。この際、部分的な善なるものは存在し得ないし、そのようなものは誤謬として打ち捨てるべき価値のないものである。
 
 話がずれってしまった。何とかして「美学」という心得はないが、哲学者は必ず試みる事柄を今回行ってみるのが目的であったのに。