うえのエントリはちょっとお休みにして

 なんかいまだにもめてるようなので、いい加減ウザイので介入する。

  • 前提の共有

 今年の5月の末からの問題を引きずってるのかと呆れれるのですが、id:hokusyuさんとid:HALTANさんを中心として議論が展開されているようです。当初(五月の段階)からhokusyuさんの論は、いわゆる人文学徒特有の引用のコラージュで論が構成されており、引用される文献を読んだことのない人にはわかりにくいのではないかと思っておりました。
増田での意見(http://anond.hatelabo.jp/20080811021912に始まる)に顕著に表れているようにそれぞれの専門相互の語句であるとか概念が共有されていないにも関わらずその論旨を理解せよというのはやはり困難です。
 本来なら、id:hokusyuさんが持論を展開するに際して、『生政治』に関連する概念、用語の説明をすべきですが、目前の議論にお忙しいようですのでいくばかりか、生政治及び例外状態に関しての補足的な論を展開してみたいかと思います。

  • 参考文献について

 以前のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20080531/1212211772)で参考文献を一部まとめましたのでその続きから始めましょう。
 

 まず問題なのが、今回の問題つまりトリアージと生政治が何処で交差するのか、次いで生政治とアウシュヴィッツが何処で交差するのか見なければなりません。

 イタリアの哲学者、ジョルジュ・アガンベンは本書においてフランスの哲学者ミシェル・フーコーの議論から『生政治』を取り上げ、アウシュヴィッツにおいて『生権力』がどのような役割を果したのかを考察します。
 と、ここまで書いてやっぱし意味不明瞭なのでアガンベンの引用するフーコーの議論がどのようなものか見てみる。とり上げるのは知への意志 (性の歴史)