カトリック作家の問題 遠藤周作

 

こういう論があります。「西欧の文学は、基督教・特にカトリシズムがわからなければ、根本的に理解できない。」

 その議論自体がただしいか、否かは別としまして、こういう事はいえると思います。われわれは基督教的地盤や伝統のなかで育っていないために、カトリック作家はもちろん、時によると非キリスト教の西欧作家の作品をも、しばしば誤読したり、あるいは、自分流に屈折したりする危険があるということです。勿論、文学とは、こう読まねばならぬという固定した法則がないのですから、ある作品を自分流に屈折して解釈する方法が間違っているというのではない。しかし、その作家が書こうとした意図まで歪げるというと、これは別問題であります。p224

 昭和32年の『現代カトリシズム序説』に集録されている論考です。第二バチカン公会議が始まるのが1962年よりですからそれ以前の論考ということになります。遠藤周作の作品に対しては、その信仰理解についてジョン・ヒックの「宗教多元主義」の影響や「信仰の土着化」を見る向きが一般的にあります。遠藤の活動は文藝批評、特にフランス文学の批評から始まっており、また彼が学生時代寝起きしていた学寮の寮長であった吉満義彦の影響から新トマス主義のジャック・マリタンの哲学に触れています。
 ここで問題としたいのは、遠藤の晩年の作品だけをテキストとして取り上げそこから信仰の土着化や時として批判のこもった語として「グノーシス主義」と評されますが、仮に彼の晩年の作品から読みとれる信仰理解、人間理解がそうであったとしても初期の段階から、つまり西欧の信仰理解、人間理解の最たるものである新トマス主義にどのように対峙したかが論じられなければ、遠藤の晩年の作品を文学作品として論ずることも困難でしょうし、まして彼の信仰理解、人間理解を論ずるのは不可能でしょう。
 
 ここで行う必要があるのは雑誌『カトリック思想』に掲載されているフランス文学批評や『三田文学』に掲載された「カトリック作家」の問題、またフランス留学時の体験を題材にした作品や晩年の『深い河』や『沈黙』に記される西欧流の信仰理解や人間理解に対して作中の人物を対峙させる箇所などから新トマス流の西欧の信仰理解、人間理解に対しての遠藤の理解を読みとることです。
 
 なぜこのような作品理解が必要不可欠かと言うと、岩下、吉満と続く西欧の信仰理解、人間理解の受容に流れに遠藤周作がいるからです。岩下も吉満も戦後の日本を知りません。また第二バチカン公会議も知ることがありません。ですが、遠藤は戦後も第二バチカン公会議も知っています。そして彼は吉満義彦も直接に知っています。

 戦前/戦後、第二バチカン公会議以前/以後の間を往復するには遠藤周作の作品理解が必要となってきます。しかし、先行研究を見る限り、遠藤の作品理解について述べるなら戦後、特に第二バチカン公会議以後の側面ばかりが取り上げられています。この主張は残念ながら遠藤の言う作者の意図を歪めての批評と言わざる得ないものです。私はカトリックの信仰を持つものが遠藤の作品を取り上げる際度々に耳にするのが彼の信仰理解の異端性の強調です。無論之を否定的に言う人もいますが同様にこれを肯定的に捉える人もいます。肯定的に捉える向きの人たちは遠藤の作品に表れる人間理解、信仰理解を第二バチカン公会議の述べる「現代化」の一端として高く評価します。ですがそうなのでしょうか?

 まず、遠藤の作品を護教的に捉えるようなことは私もしませんし、遠藤自身「カトリック作家の問題」で明瞭に作家が護教的に振舞うことを否定しています。
 

カトリック作家は、作家である以上何よりも人間を凝視するのが義務であり、この人間凝視の義務を放擲する事はゆるされない。

もしカトリック文学が「カトリシズムにおける文学」つまりカトリシズムの護教的、宣伝的な目的のために、作中人物の人間心理を作為的にしたり、歪めたりするならば、これは、もはや真の意味での文学ではありません。 p233

  
 ここで彼の作品を単に護教文学と捉える批評は作者自身により退けられます。ではカトリックの信仰者として遠藤は作品において何を描くのか?

 現代文学に流れこんできたフロイドやベルグソンの人間心理の内部的探究、あるいはドストエフスキイの小説技術や矛盾心理の研究、ジイドの自己誠実の問題やプルーストの技術は、これらブルジェやボルドオの次にやってくるカトリック作家にとって拒否してはならぬ、むしろ、それを貫いていかねばならなぬ問題となったのです。よし、それがカトリシズムの護教的目的に矛盾、抵触する点があっても、人間観察のうえに寄与するものである以上、彼等はこれを当然摂取したわけです。その時、これらのあたらしいカトリック作家たちは従来の「護教文学」のたかみから躍り出て「神なき」人間をまず人間として探究する義務を感じました。pp233-234

  • 1 神なき「人間」

 
 引用で述べているように遠藤が探究し描こうとするのは「神なき」人間の人間性です。この「神なき」という問題意識は岩下神父の哲学的、神学的探究の底にも流れている問題意識とも言うことができます。哲学者としての吉満もデカルト以後の哲学をして形而上学が成り立ち得ないのをして、近代の哲学を「神なき」堕落した哲学と評しています。

 まず一つテクストを読む際のキーが見つかったことになります。「神なき」人間と言うのはどういうことなのか、この点を意識に置くこととします。

 対象が定まったところで次の問題は書き手である遠藤がどのような立ち位置で作品をつむぐのかが問題となります。


*書き途中