現状の把握について

 中世、近世日本に訪れたイエズス会士達は日本の文物、習俗、文化、政治諸々を書簡によって詳細に報告しているが、現在のイエズス会がその役割、つまり現代の日本に対しての適切な観察、報告ができているのか?恐らく現在最も必要とされ、まず行われなければならないことは現状把握であり、そのための学問的な報告ではなかろうか。

 1 教会の知的遺産の相続と運営
 2 宣教地(日本)における現況の把握とプランの作成
 3 他地域の教会との連携及び情報交換
 
 イエズス会に特に求められるのはその機動性を生かして上記の活動を行うことであると考える。主たる活動は教育、研究によるものであり、高等、中等教育機関が相互に連携することが求められている。
 上記の現状認識は当然既にあるものとして問題を指摘したいが、日本管区として日本の現状を認識するという意識が乏しすぎはしないか?という問いである。日本を極東の一地域として位置づける必要は確かにある。しかしそれは列記事項の一と二が前提になるものである。
 まず列記事項一についてはスコラ学云々と度々非難しているのでここでは繰り返さない。今回主に問題にしたいのは列記事項二に関してである。
 まず日本の現状分析のお粗末さについて指摘しておきたいが、大まかに二点、まず一点日本文化の射程の狭さ、二点社会認識の固定化。
 一点目の日本文化の射程の狭さであるが、インカルチュレーション(この用語は非常に不快であるが)の対象としての日本文化として対象にされるのは、日本の古典的文化、芸能、宗教が主たるものとなっている。残念ながらこれらの文化に日常的に触れ、また日常とする日本人がどれだけいるだろうか?残念ながらそれらの文化は日本人のごく限られたサークルで受容されるのみであり、多くの日本人にとっては教科書で習う博物館の展示物に過ぎないのではないか。無論そうではないという分析も成り立ちうるが、現在の日本文化の分析がその可否を判断するにはまず必要である。神学者の多くがこれは日本の研究者にしろ、海外の研究者にしろ浅はかな判断でステレオタイプな日本文化を対象にしてしまっているのは宣教に際して大きな障害になってはいないのか。
 また二点目の社会認識の固定化であるが、現状の社会に対しての分析が主に社会学的方法・・・と述べるにはあまりにお粗末な社会階層論、貧困論で固定化されており現代の社会認識の方法論としては適していないと様々な批判を受けているものを未だに主軸として分析、実践を行っている。
 なお、私はイエズス会が熱心に行うインカルチュレーション、社会正義の研究、活動を否定するつもりもないし、必要不可欠な事柄であると考える。だが残念ながら方法論の点で一切許容もできないし、残念ながら現状の方法論を採用し、それに安住する限り成果が何らあがらないことだけは断言できる。

 ここで、特に日本に求めらる考察のキーは『異邦人』と『徴税人』にあると私は考える。なお、本件は私が中高と聖書の勉強を神父様と続けていた際から気になり続けていたことでもあり、残念ながらこれら二つのキーを主たるものとして神学を考えている人を私は知らない。無論私の不勉強故に知らぬだけ名のかもしれない。
 なぜに二つのキーを重要視するかの説明は容易である。我々が対峙せねばならぬは今までのインカルチュレーションや社会司牧の知見に従うなら、文化を異にする『異邦人』であり、資本主義、世俗化と言う社会の中で暮らす『徴税人』である。そしてそれに対して口にするのは何かといえば道徳的な説教である。もう私はウンザリである。他に恵まれぬ人を知り、悔い、それを助けろだ!?遠慮なく言うが、分かりやすい対象に容易に逃げ込みすぎである。
 禅にしろ、儒教にしろなんにしろそうだし、貧困者、病者・・・私も否定はしない、彼らが隣人であること、隣人愛の対象であること、だが問いたいのだが、異邦人や徴税人は隣人ではないのか?
 日本においてもそうであるし、海外においてもそうである。君らが対象にするのは常に分かりやすいものに対してである。それはそうだろう、知的な困難もいらないし道徳的な葛藤も不要である。そして君ら自身の自尊心もそれで十分満たされる。また口に出す出さないは別であるが他人との差異化まで可能である。それがどのような結果を招いてきたか。自分の経験に基づいて話をしようか?
 信じるためにはまずもって無垢でなくてはならず常に虐げられたもののために善行をせねばならない。残念ながらそんな事を契約することはできない。敷居が高すぎる。そんな事は不可能だ。そして信じている人間が本当に常日頃から道徳的であり又他人の手足になるほど力があり有能なのか?彼等は単なる偽善者だ。しかもそれを他人にまで要求する。むしろその行いは傲慢で不道徳ではないか。
 ヒューマニズムや軽薄な倫理からすれば哀れみの対象になるのは病者や貧者である。所詮人間の慈愛などこの範囲にとどまるものであるし、病者や貧者に対しては常に異形なもの絶対的な他者であり恐怖と蔑みが伴うものである。確かに人間の力のみ(理性と意志、情念)によりこの壁を乗り越えることは人類愛とやらを標榜するヒューマニズムのすばらしさである。だがほんとうに他者に対しての恐怖や不信がなくなるのか?それはいかに乗り越えようとしても現実問題として存在しているのではないか?信仰はこの不信と恐怖、断絶があるものとして出発する。その有様は創世記に記されたとおりである。神に背いたあとに背いた相手は誰だ?アダムはエバを非難した。エバは蛇を非難した。神への背きを背負わなかった人間は唯一の隣人にその罪を負わした。その隣人もその罪を背負わずその罪を自然に負わした。それは自然の成り行きだと。
 弁明も弁解の余地もない。仕方がないのだ。自分の生まれた以前のことに誰が責任を負えようか、ましてこの乏しい理性と自由意志をもってして。しかしながら必要なのはその乏しい理性と自由意志である。