なんと言うか立ち位置の再確認

 なんと言うか大学の先生に神学じゃなくて哲学のほうがよかったんじゃないとか言われ凹んだりしますが、他には法学とか英語学科とか色々言われますが、誰がなんと言おうが私の専攻は神学です。神学にも幾つか立ち位置があるとは思いますが私の立ち位置はラッチンガーの神学の位置にあります。あと、ラッチンガーの前ならカールアダムとか、所謂宗教多元主義やら包括主義は採用いたしません。
 専攻は神学だと述べましたが、元の興味は科学哲学や法哲学、認識論、実在論に回収される領域に収まっています。収まっていますと言ってもそれぞれの領域が馬鹿みたいに広くて、深くて入り組んでるわけですが。
 もう何度目だこのネタを使うのはと言う感じですが、元々の興味である科学哲学は中高の恩師の影響、法哲学は私の元々持ってた興味方向から。元々私は理系でしたが数学の成績が以下略と言う感じでしぶしぶ文系に進学しました。ですが、物理も化学も生物も大好きです。中高と迷惑をかけた神父様が化学の先生だったので、延々聖書やら信仰は迷信やつくり話であってどうして貴方の中では科学と信仰が共存しているのかとばかり聞いていました。当時読んで非常に面白かったのが文化としての近代科学―歴史的・学際的視点から (講談社学術文庫)です。この神父様にはほんとに色々と迷惑をかけました。毎週木曜の放課後にわざわざ私一人しか参加しないのに聖書の勉強会を続けてくれたことには感謝してもしきれません。
 もう一つの興味である法哲学もこの聖書の勉強会抜きには成り立たないものです。中学三年生のとき読んだジョンロックの『市民政府論』そこに記されている創造だ、神だなんだに私はショックを受けました。延々、迷信であり愚かなものと見ている聖書の記述を根拠に『市民政府論』が展開していくからです。つまり、聖書の可笑しな記述を一蹴に付すならロックの議論も又一蹴に付すこととなります。どうにも私は困惑しました。結局夏目漱石が『文明論集』で述べているようなジレンマ、困難は何ら解決されてはいないのではないか、ではその問題が解決できるならどのような方法でか?これが私の当時の関心事でした。さて、中高一貫校ではおなじみの卒業論文(私の学校は中学しかなかった)のテーマは「宗教改革におけるルーターの思想とザビエル」のはずでした。中間報告まではこのテーマだったのですが、最終的に迷って当時流行っていた歴史教科諸問題について書こうと夏にテーマを変え、結局論がまとまらず論文提出せずに高校に進学しました・・・当時からこのいい加減さorz

 卒業してからものんびりさんでそれこそ二転三転あったのですが、やはり学問をするならそれがどのような領域であれ、それこそ元々の科学哲学や法哲学を詰めていく過程でどうしても神学と言うのを一度やっておかないとどうにもおかしなことになりそうだという思いが強くなり神学部に進学しました。以後はごらんの通りですので多くはここで又書きはしませんが、えぇ、神学は期待通りでしたが、神学『部』に関してはどうにもこうにも。
 大学でも色々あって結局のところ一七世紀~十九世紀の哲学、神学が守備範囲となりそうです。フランシス・スアレスの研究をし始めるのが目下の大目標です。それにあわせて自然法に関しての議論を丁寧に追いかけていくことがもう一つの課題です。
 最近になって神学、特に教議論周辺や形而上学をやり始めました。これは周りの求めに応じてという形ですので些か不慣れというか、未だに扱うのに恐怖を覚えながらと言ったところです。