クルトゥール・ハイム及び三木清について

以前記した件に関しての追記、報告。

以下『上智大学五十年史』(pp110-111)より
Kulturheimというのは生粋のドイツ語ではない。Kultur(文化)とHeim(ホーム)という二語をたくみにつなぎあわせた造語であって、いうなれば知識人の集まる茶の間といった意味である。語呂も悪くないし、上智を知るものには、いつのまにか親しみぶかい言葉となった。
このハイムができたのは、一九三七年(昭和十二年)一月で、場所は旧教授館に接続する木造二階建(旧高島邸)の階下三室をあてた。開設の主旨は一つは西欧文化をその歴史的関連において正しく紹介するためであり、もう一つは教養ある人々の精神的な団結をはぐくむためであった。三室のうち一部屋は、ラウレス教授の蒐集になる「カトリック案内文庫」や「キリシタン文献」などが並べてあり、他の二部屋は、講演、スライド映写、レコード・コンサートのために使用された。講演のテーマは、当初はつぎのようなものであった。「現代ドイツ文学における神の思想」、「万国聖体大会の歴史的意義」、「モスクワの無神論者同盟」。「今日のロシア」、「キリスト教的西欧と日本の初代教会における復活祭」など。これらの催しは月に二回行なわれ、講演が終わるとなごやかな茶話会にうつった。このハイムの初代所長は、武宮隼人師であったが、同師はまもなく神戸の六甲学園校長として赴任された。その後任はフィステル教授で、同教授は当時アロイジオ舎監をも兼ねられていた。さらに一九四〇年(昭和十五年)秋にはロンドン大学で学位を得て再来朝されたロゲンドルフ教授(同教授は一九三五年〔昭和十年〕から二年間日本に滞在、広島高校のドイツ語講師でもあった)が、この仕事を引き受けることになった。そして主戦の年まで五年間、少なくとも毎月一回講演会か座談会がひらかれ、食料事情の最悪のときでもお茶にセンベイぐらいは供されたそうである。講演は柳宋悦、三木清、田中耕太郎、吉満義彦の諸氏をはじめ、多くの知識人に依頼した。上智大学の諸教授もむろんしばしば講演し、聴衆は各大学の学生及びかような催しに関心のある一般人であった。そのうち戦局は重大化し、学徒出陣、家族疎開などのため、毎月プリント刷りの「クルトゥール・ハイム便り」を発行し、各方面に配布した。またそのことは宗教書はほとんど出版されなかったので『イミタチオ・クリスチナ』『シエナの聖カタリナの神秘思想著作』などの古典をやはりプリント刷りで発行した。

なお上智大学校史資料室に赴き上記記事の情報源として使用された文章などが残っているかどうか確認して頂くことをお願いした。年明けには何らかの報告があると思う。

なお続いて三木清カトリックとの関係に関して引用をする。
国内新体制を求めて―両大戦後にわたる革新運動・思想の軌跡 (長崎純心大学学術叢書)
塩崎弘明『国内新体制を求めて 両大戦後にわたる革新運動・思想の軌跡』より

…ここでは三木が文化研究会に係わり協同主義を唱えるに至った思想的背景を、これまであまり問題にされてこなかった側面に焦点を合わせて一瞥しておきたい。 昭和一〇年一月八日付けの『日記』の中で三木は、「吉満君来る、『カトリック思想辞典』の仕事を始める(67)」と記している。ここに出てくる「吉満君」とは、当時上智大学教授で後に触れることになる矢部治の「友人」でもあり、また『文学界』昭和一七年一〇月号に掲載された座談会「近代の超克」のメンバーの一人であった中世哲学者吉満義彦を指す。そに「『カトリック思想辞典』の仕事」とは、同じく上智大学教授のイエズス会士クラウス(J.B.Kraus)が中心となって翌昭和一一年二月から始められ『カトリック大辞典』編纂のパイロット的な仕事で、主に関係のドイツ語の文章を日本語に訳すという翻訳の仕事であった。こうしたイエズス会経営の上大学のカトリック関係者と三木のつながりは、昭和四年一一月末にクラウスが来日した直後から始まる。『スコラ哲学・ピューリタニズム・資本主義(68)の著者で、カトリック社会哲学の「連帯主義(Solidalismus)」の立場に立っていたクラウスは、三木らを誘って昭和五年の初めに「プラトン・アリストレス研究会」を開く。やがてこの研究会が母体となって三木を中心にその後「プラトンアリストテレス学会」の設立準備が進められていくわけである。 その間の事情を三木は、昭和五年の「手記―マルクス主義哲学について」の中で次のようにしている。「私は昨年『プロレタリア科学研究所』の創立にあたってそれに参加した一方、他方ではまた最近『プラトンアリストテレス学会』(Platon-Aistoteles Gesellschaft)の設立のために努力しつつあるのである。プラトンアリストテレス学会は上智大学教授クラウス(Kraus)氏などと協力してこしへた。ギリシア・ローマの古典文化の研究及び普及のために国内的、国際的に活動することを目的とする。本年九月からその活動を開始すべく準備中であた。因みに私はこの間プロレタリア科学研究所から脱退した(69)」。結局三木の「検挙事件」の翌昭和六年初め、「学会」に衣更えすることの出来なかっ「プラトンアリストテレス研究会」は発展解消して「経ゲル研究会」となる。この「ヘーゲル研究会」は、その生誕百周年を機に沸き起こった「ヘーゲ復興」を背景に結成されたハーグに本部をおく「国際ヘーゲル連盟」の日本支部をかねる。そして日本支部を代表していたのがクラウスと三木であった。 なお「ヘーゲル研究会」には、クラウスと三木の両代表の他に三木と同じく『カトリック大辞典』の翻訳にたずさわった古在由重、戸坂潤、栗田賢三ら参加していた。マルキシズムリベラリズムを共に「止揚」しようとする観点から、「社会的形而上学」としての「哲学的人間学」に基づく「人間中心主的目的論」の立場を取る「社会連帯主義」者のクラウス(70)は、三木それに古在や戸坂らを「ヘーゲル左派」と見なしていたようである(71)。いずれにせ、クラウスと三木、戸坂、古在、栗田、それに清水幾太郎らを含む『カトリック大辞典』の翻訳にたずさわった者との関係は、「キリスト教人道主義72)」、「左翼分子ということは気にかけず、能力を利用した(73)」、さらに「当時の日本およびドイツの政治情勢に対する一種の批判的態度(74)」等々の由だけですべてを説明し切れるないところがあるといわなければならない。
 というのは、最も関係の深かったクラウスと三木の関係を考える時、どうしても右に上げた事由だけで両者の関係を説明し尽くすことが出来ないからである。少なくとも両者の間には「時務の理論」という点で相通じるところがあったからである。つまりクラウスらの唱える「連帯主義」と三木の唱える協同主義は、共に現在EU統合の原理となる「補充的助力の原理」(Principium Subsidiarii Officii)を根本原理とし、且つ「反近代」及び「中道」(Via Media)の思想を共有していると言わざるをえない(75)。ところでこの点に関して大変興味深いことがある。それは昭和六年五月に出された教皇ピオⅩⅠ世の社会回勅『クワドラジェジモ・アンノ』(Quadragesimo Anno)』をクラウスの依頼で三木が翻訳し、この種の出版物としては珍しく一〇月に岩波書店から刊行されたことである。回勅『クワドラジェジモ・アンノ』を貫く思想は「連帯主義」で、これを三木の協同主義を代弁する『新日本の思想原理』または『協同主義の哲学的原理』と比較対照する時、前述の所謂「補充的助力の原理」または「反近代」及び「中道」の思想という点での相似性が窺われる(76)。
…中略…だからといって三木の協同主義が、『回勅』の「翻訳」でしかなかったと断定するつもりはない。何故なら、『回勅』と三木の協同主義との間に若し相似性が見られるとすれば、それは「リベラリズムファシズム止揚し、コミュニズに対抗する(79)」という「時務の論理」からくる相似性であって、『回勅』の思想的基礎となるトミズムと「三木哲学」との間に相似性が窺われるなどというものでは決してないからである。(pp246-249)*引用者註:数字は論考中の註である*

三木清の哲学にしろクラウスのカトリック社会思想にしろそれの判断については個別に判断すべきであるので現時点では判断保留とするが、三木と当時のカトリックの思想、特に社会思想との間に結びつきがあることは確認できた。

発展研究に関して

教会の社会教書については『教会の社会教書』収録のレオ13世「レールム・ノヴァルム」、ピオ11世「クワドラジェジモ・アンノ」、パウロ6世「オクトジェジマ・アドヴェニエンテ」及び小林珍雄訳、ヨハネ23世「マーテル・エト・マジストラ」、ヨハネパウロ2世「働くことについて」及び「新しい課題―教会と社会の百年をふりかえって」を参照のこと。
また、十九世紀以降の教会の社会思想については二件ほど先行研究が刊行されている。(今書籍リストを漁る気力がないので後日)
社会教説自体の研究と合わせ、日本の教会においてどのように受容されたのか、また日本の思想界にどのような影響を与えたのか、また現在それらの知見から見出せるものは何かが明らかにされる必要がある。
最後に言い添えておくが、これらの研究を本来行なうべきは本学(上智大学)の「社会正義研究所」及びイエズス会の「社会司牧センター」である。手厳しいのは承知で述べるが諸君らは理論や学史的、系譜学的研究をおざなりにしすぎている。早々に改善すべき点である。