教養教育の拡充

*専らこのことについて思弁する*

  • 中等教育、特にイエズス会中等教育において使用する倫理用のテキストの作成について
  • テキストの内容はどのようなものであるべきか
  • テキスト作成に必要な事柄は何か、協力者その他含め

 昨日をもって来年度以降の自らの置かれる立場が定まったので必要な職務を一つずつ実行に移していく。特に現在必要だと考えるのが中等教育課程においての倫理学のテキスト作成である。まず考慮されなければならないのが、一点〈テキストによって明らかにされる倫理はそもそもどのようなものか〉二点〈教授される内容がどのような方法で教授されるか、つまりテキストの構成、教授法について〉以上の二点である。
 一点目に関しては倫理学、つまり哲学の研究が行なわれる必要がある。二点目に関してはイエズス会の学事規定、及びコレジオその他での教授法の研究が必要である。更に何より必要なのは被教育者たる生徒が現在どのような倫理的な困難、誤りに直面するか、またしうるかである。

予想されうる反論とその回答

エリクソンに代表される心理学の研究及び教授法、教授内容への展開は不要である。
何故なら倫理は心理学で取り扱う内容ではないからである。心理学は認識論、科学哲学の初歩においてと合わせ教授する。

  • 聖書を使っての指導、霊的指導の必要について。

→倫理の教授及びその教授に用いるテキストには不要である。
何故なら倫理は独立した一つの学であり、またこの探究及び教授は自然理性を用いる限りで可能であるからである。また霊的指導は教室での教育の様式、形体に適さない。むしろ倫理の授業においての教授は超えたものつまり霊的なものへの開きのためにある前段階、霊的指導のための準備に過ぎない。霊的な指導については求める生徒、学生に課外の活動として、信徒、司祭が行なう。

  • 哲学的な内容、教授法が学生に適しているかについて。

イエズス会の中高等学校に関しては哲学的な側面からの倫理、及び哲学、宗教に関しての教授が適していると考える。
私個人の経験として哲学に関してまた哲学的な思考からの教授が馴染んでいた。
個人的な経験は論外であるが、イエズス会の中高等学校の生徒の多くが自然科学(特に医学、薬学)や法科に進学することを考慮するとき彼らに対して必要な倫理特に生命倫理、医療倫理、社会倫理の教授、それらの基礎をなす科学哲学、法哲学的思考、またその基盤となる教養及び論理学、修辞学などの基礎的素養の教授は教育者の(特に中等教育課程の責任と考える)第一の任務である。
現行のカリキュラムの問題点は、一年間の講義内容が、教員に一任されており6年間通しての継続的体系的なカリキュラムが存在していないこと、また教授者の能力が求められている(上記の内容)から乖離していることである。 

  • 想定されるカリキュラム、テキストはイエズス会の学校でのみの使用に耐えるものなのか。

カトリック学校(少なくとも中高等学校)での教授に耐えるものである。
一、テキストの基本理念はトマスに代表されるカトリックの神学、哲学の知見に基づいた倫理の教授である。故にカトリシズムに基づくものである。
二、霊的指導については上記の通りテキストでは一切取り扱わない。故に各修道会は自らの霊性とあわせあくまで倫理のテキストして教授可能である。なおテキストの構成は補足的に使用する場合、また各学校の状況に合わせ使用できるよう考慮して作成を進める。具体的にはテキストの構成、章立て等。
三、当然ながら自然理性に基づき教授される倫理であるから、万人に普遍に読まれて問題のないものであるし、テキストの内容はそうでなければならない。

**追記**
 大概眠いのでもう寝ようと思う。それは兎も角として上記のようなテキストを使用しての授業が突拍子もない私の思いつきかと言えば違うとだけは記しておく。以前、と言ってもかなり以前であるが、エンデルレ書店から出版されていた『偉大なる人間』『善き人間』『善き社会人』と言う三巻の教科書で倫理の授業が行なわれていた頃がある。内容については追って検討していくが、古くなっているところはあるものの(当然だが)理性と自由意志の重要性であるとかカトリシズムに基づいた倫理テキストである。
 これはあくまで個人的な感想として受け取っていただきたいが、倫理の授業中に聖書を使いそこから倫理や道徳を説くのは無意味であると共に有害ですらあると考える。デカルトが述べるように聖書は信仰の書物であり、そこに記されているのは福音、つまり神からの啓示である。聖書の内容が腑に落ちるのは少なくとも洗礼を受けて以降、洗礼を受ける意志を持ってからである。
 非常に正直に話すが、信者ではなかった頃に授業において読んだ聖書は受け入れがたく、またそこから導かれる道徳、倫理もまた受け入れがたかった。何よりも疑問が生まれ、それを聖書によって語ることが、問いを不問に付す態度に思え反発を覚えた。
 その疑問含め課外での聖書研究で霊的なもの(しかし当時は霊的であったとは認識してはいなかったが)が満たされたものの授業においては理解できる、受け入れることのできるものはなかった。
 残念であるが、聖書から倫理は(倫理学で扱う)導くことができない。暴論と取られるかもしれないが、倫理は自然理性により認識可能である。信仰者は神からの啓示により明瞭で確固とした倫理の基盤を信仰によって見出すのである。一個の人間の人格において信仰と倫理は一致する。至高善が倫理の体系の主柱であり、また源泉であるのは疑いようがないが、その疑いようのない至高善を認識するのは自然理性の役割であり、その至高善の根源を問うのも自然理性である。ただ、その最後の問いに答えるのは神のみである。
 大概眠くてわけがわからなくなりつつあるが、倫理を通して信仰を証しするのが目的の一つでもある。目的の一つでもあると述べるのは倫理は倫理として自立した一体系であるので、それを手段とすることができないからである。宣教を、つまりキリストの福音を伝えるのは重要な役割であるが、それが為に倫理を道具とすることはできない。倫理の授業においては倫理が主たるものであり、信仰は副次的な位置に授業の中では甘んじなければならない。
 信仰の自由と言う、政治的な意味合いからと言うよりもむしろ、福音つまり神、キリストの教えは何ら善、至高善と相反するものではないと我々(信仰者)は知るが故に倫理の教授を優先すべきである。被教育者の理性が正しく用いられることは何よりも福音を伝える際の基礎としても大いに益するものであるからだ。