霊的指導について(補足)

 上記で聖書を倫理の授業で用いるのは適さないと述べたが、誤解を招きかねないので補足をしておこうと思う。ここで述べるのはあくまで40人前後の学生に対して教室で行なわれる座学、授業においては聖書を使っての『倫理』の教授は適さないと述べたのであって、聖書についてないしはキリスト教について、また十字架上での贖い、救いであるとか原罪や復活、受肉について、聖霊の働き・・・等々を講ずる際には聖書を使わずに誰が授業をしうるだろうか?
 あくまで理性と信仰とはまず以って分けて考えられるものであり、もし仮にこれらが何の問題もなく一致しているなら信仰と理性の調和などと言う問いが出てくるはずがない。
 何よりも現代においての倫理的な課題は理性を拒絶する信仰であり、また信仰を拒絶する理性がいかに交わるか、自己の内に結ばれるかである。
 私が想定しているのは超えたものに開かれた理性のあり様を6年間の授業を通して生徒の前に提示することである。もし仮に超えたものが何であるか求める者がいるのであれば、彼に求めるものを与えるべきである。与えるべきものを求めるものに対して与えるのが基本である。少なくとも私は中高における授業は他の学科同様に自然理性に基づいたものであるべきであると考える。

 猶これはあくまでイエズス会の中高を念頭においての記述であるので他の学校の状況とは当然異なると思う。しかしながら、私の母校含めの学校で教授する際は信仰と理性が如何様に一致、調和するのか弁明する準備をしておくべきであるとだけは言える。
 虎穴に入らずんば虎児を得ず、とは言われるが、用意もなしに小羊が虎穴に入ればそれこそ虎刈りにされるのがおちである。