俗的な意味での教会 地上の教会と言う意識

 id:fuku33先生からtwitterで新年の挨拶と一緒に次のような質問をされた。大意は、経営学で扱うような、と言うよりもむしろ一般においてマネージメントと呼ばれるような要素は重要な知見ではないのか?と言う問いである。
 これより以前の私の発言を受けてのものであるから、その点を先に記しておきたいと思う。いくらか誤解を招くような発言をしてしまったことを先に誤った上で発言の意図であるとか趣旨を簡略に説明します。
 まず、私は経営学で扱う、組織論であるとか、各種リソースの適正な配分や運営をいかにするか等、マーケットリサーチやマネージメントと呼ばれる知識が不用であるとは思いません。ただ、それらは所謂下部学問に属すものであり、端的に述べると価値、公共の福祉と漠然と呼ぶべきものに奉仕して始めて意味を持つ知識であり、学問であると考えています。私が私大文系的と揶揄したのはそれらの社会において何が価値であるのか、善であるのか、この場合であると経営学の前提や対象、ひいては学問の目的が何であるのか不問にし、そこで得た有益な知見をどのような目的で、何のために利用しているか把握しない、しようとしない立場を私大文系的だと非難したのです。
 この場合、私は誰がどの価値に何を使おうと別にかまわないと考えています。極端な話をすると道具である経営学は価値中立的な知見であると呼べます。これは非常に極端ですが、組織論の知見やマーケティングの手法、人的管理その他の知見を信仰を持つものがその事業で、例えば福祉事業をカトリックの信仰理解をベースに立ち上げるにしても、組織を維持運営するに当たって経営学の手法や知見、理解が事業主にとって無益なはずがありません。
 この点fuku33先生の意図している批判については私も多くの点で同意します。所謂人文学的な、私は以下において道徳教条主義者と呼称しますが、彼らが資本主義的、近代的、ないしは西洋的とラベリングする知見その他を反知性的な姿勢で蔑視し軽侮するような発言や態度には私も度々直面します。私はこの点非常に無益だと考えますし、このような態度に対して不満をもっています。
 神学やカトリック教会に関しての話になりますが、カトリック教会はその教会と言う組織の維持運営の必要から古い時代より教会法と言う各種規則を維持運営してきたことからも明らかなように経営学と呼ばれるような学問が成立する以前からそのような知見を必要としていましたし、利用してきていました。この点については各種の修道会や教会組織の研究者に詳しい点は譲りますが、マネージメントその他の知見は教会が教会である以上現在でも必要とされています。
 具体的な問題として日本にも位階制(つまり組織を持った)教会が存在し、各種大小の修道会が活動をしていることを考えるならばマネージメントの問題は日々生じているはずです。文字道理、教会は24時間、365日クリスマスも正月も休まず世の終わりまで活動するわけですから過去においてそうであったように現在においても未来においても実践上の必要から理論とそこから導かれる知見が必要とされます。
 残念なのですが、現在の教会の置かれている状況や組織の点検を行なうための学問的な研究は非常に乏しいのが現状です。これらの困難に対しては各小教区の主任司祭、司教、大司教等がマネージメント(神学的には牧職)を役割ゆえに引受け、学問的な研究としてではなく文字通り実際上の必要から行なっているのが現状です。このような状況は非常に不幸であると言わざる得ないものです。何故なら、学問的批判考察の対象に値し、且つ必要されている知見に対して真理と信仰に照らしての研究が行なわれその知見が蓄積、提供されることは日本のカトリック教会、これは教会のみならず各修道会、また信徒の自主的な活動を助ける上でも大きな益となるからです。
 実践の学は上で述べたように道具として意味を持つ知見です。つまり奉仕する対象である上位の学問の知見に使われなければ、結び付けられなければ意味を持つものではありません。まずここでは大まかな原則、この場合教会論や秘跡論で扱い考察するものが実践の学では奉仕し従うべき上位の知見となる、を確認したうえで現状の認識(日本の教会、また教会が置かれた日本の“現在”の社会状況、文化等)をし、かつ何がカトリックに要求されており、具体的にそれに答えるためにはどのような計画が可能なのか、その実行に必要なリソースはどのようなもので、足りないリソースは何であるのか、それは調達可能なのか等が考量されなければなりません。

  • 具体的に今年度行動すること

昨年収集した資料のまとめと報告
パリ外国宣教会司祭に協力要請、資料の回収、整理
友人の研究会発足の後方支援
大学校史資料室にて資料の回収、今後の調査協力要請
マリタン中心に新トミズムの批判的研究
社会教説の整理と日本における社会事業の研究
頭の悪い本学教授陣宛の上申書の作成(一番やらないといけないけど一番やりたくない。100周年なのだからお願いだからちゃんと仕事してくださいorz)

大まかにまとめるとパリミッションの再宣教から始まった明治期以降のカトリック教会の思想や事業の調査と整理を継続して行なう。また、現状においてどのような行動計画が立てられるのか精査すること。あとこれが一番面倒なのですが、うちの大学のトンマどもの尻を蹴り飛ばして必要な仕事をさせること。大学100周年に向けての行動計画とか公表されてる限りのものには目を通しているけどやる気があるのかほとほと疑わしい。ほんと系列校の恥さらし。

今エントリーの結論は、カトリック教会においては組織をマネージメントするための能力を持った人的リソースが欠如しており、何より深刻なのは欠如の原因がどこにあるのか把握ができていないし、しようともしていない点です。以前のエントリーで指摘したように(http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20081019/1224422719)必要なのは宣教神学です。召出しがないとか信徒が増えないとかただ嘆くだけではどうしようもないのは大概皆わかってるんではなかろうか。
ほんと明治と違ってヨーロッパも余裕がなくなってるのだからきちんと独力で維持運営をしないといけないのに、司祭や神学者に必要不可欠な弁論や修辞、論理的な訓練を含んでいたスコラ学をばっさり必要部分まで切って捨てるし、日本の霊性だとかアジアの神学言うくせに自分ところの教会史の研究や宣教時の問題点の研究は不充分だし、ほんと言ってることとやってることのギャップが酷すぎる。
 
霊的な賜物も大事ですがそれと同様に理知的な部分も大事です。