人間学

 人間学について小論考をしたいと思う。特にパスカル『パンセ』に関連してである。神学はともかくとして諸々の所謂自然科学でない学問は皆その学問の究極的な関心を人間存在の探究としている。個人的には笑止千万な自称にすぎないと思うのであるがお題目と言うのは大事である。
 所謂文学、哲学を好む人たち、つまり感傷的に“自分自身”を省察の対象にする人たちのことがこの論考の考察対象である。
 人文学の存在意義を問われる場合に半ば開き直りの伴った回答としてなされるのが、人文学の存在価値とは人間存在の探究であり、それは大学、学問それ自体の根幹を成し、かつその基礎づけである。そして、人文学を学ぶ学生はその“課程”で(過程ではない)教養を身につけ、人格形成を行なう・・・云々。
 まぁ、腹を抱えて笑えるほどの大言壮語である。まずもって教授に当たる教授の人格が以下rya、そもそも教養がこれまた以下ryaである。なおこのように笑われるのがいやな教授は自分は学問を好きでやっているとこれまた開き直るのである。これも結局別の理由で笑われるだけである。なお、私は前者を笑うだけで済ますが、後者は笑い飛ばした後に蹴り飛ばす。不愉快な連中である。学問は個人の趣味ではない。
 曖昧に語れるところの「教養」だとか「人格形成」なる物事については喧々諤々、それこそ人それぞれの曖昧な意味づけがされており、全くまとまりを見せない。ただ、万人がYESとしか言いようがない。つまりそれは何事も述べていないと同じことであるが、くだらない文言が繰り返されるだけである。
 そもそも形成せんとする人格とはなんなのか、探究する対象の人間とはなんなのか、このような問いから始めなくてはならない。私ははっきりと述べておきたいのだが、これらの問いは不毛でかつ、無益である。
 端的にこう言ってしまおう、神との関係なしに人間を問うことはできない。人間は人間自身を問うことは不可能である。
 神なしに人間を問うことは不可能である。かのデカルトでさえ彼の用いるところの理性、良識は神から与えられたものだとして話を始めている。あと幾つかの批判を始めに封じておきたいので先に述べるが、デカルトが成したのは『哲学』であり『神学』ではない。彼は明瞭に聖書は信仰の書物であり、魂の救済を取り扱うのは“神学者”であると述べている。これはトマス以来の学問のつまり諸々の哲学と神学の範囲、位置づけを引き継いでの見解である。彼の哲学に神学がないと言って批難するのは筋違いである。魚屋に行ってトマトを買いたいと言う様なものだ。彼が成したのは神学の利用したアリストテレスの哲学、つまり第一哲学の誤りを正すことを目的としたものであり、神学者がやるべきだった仕事はトマスがアリストテレスの哲学を消化し、神学に従わしたようにデカルトの第一哲学つまり『第一哲学についての考察/翻訳では『省察』』を神学の基礎として使用に耐えるものなのか精査することであった。残念ながらトマスのように技量に富んだ神学者デカルトの後に現われることがなかったが。
 神学者が注意しなければならないのは未だに神学者が使いこなせる哲学はアリストテレスの哲学の神学的受容でしかないということである。これは公会議の文章にもはっきりと記してある。無論神学者が個別にアリストテレス以外の哲学が神学の使用に耐えるのではないかとの探究をすることを阻むものではないが、もしそれを試みるのであればそれはトマスが成したのと同じ仕事をすることであると念頭に置かなければならない。残念ながら私にはそんな冒険心は備わっていないので粛々と神学をする際にはトマスの方針を参考にしながら思弁をおこなうこととする。・・・のだけれども、私も多少の冒険心がないでもないのでたまにデカルトの哲学が神学に沿ったものにならないかと考えてみたりすることはある、とだけは記しておく。
 デカルトに向けられた批判はデカルト主義者に対してのものである。彼等の誤りは本来神学に奉仕するところの哲学を逆にその批判に用いる点についてである。

  • 17世紀的な混乱特に知性論に関して

さて、一七世紀の知的な混乱と言うよりも喧騒に未だに我々は耳を煩わされている。要点をまとめると、理性と信仰の一致、つまり啓示神学と自然神学(哲学しいては形而上学)の幸せな婚姻生活が成り立つか否かが問題である。ここにきてようやくパスカルの『パンセ』を取り扱うことができる。

神学と哲学の位置づけ、境界について

さて、以前からの論考の継続をここから始めたいと思う。以前記したように神学とは<神について学ぶこと>であり、その学びは神自身の教えた所から学ぶことであり、また神に教えられる預言者、また御子であるイエス・キリストが弟子たちに教えた際の姿に倣うものである。そして教えられた弟子たち、彼らは教えるようにと使徒としての役割を負い、その役割は現在でも教会が負っている。つまり、我々は聖書の教えるところ、また聖伝の伝えるところ、教会の教導に従って学ぶのが神学であり、神学者としてのあり方である。 
・・・・もう既に四時である。筆を置く前に論考の趣旨と幾つかの弁明を記しておきたいと思う。
まず、神学においてのトマスの位置について、聖トマスが現在においても神学において配慮されるべきであると第二バチカン公会議は「司祭の養成に関する教令」の16(神学課程)において記している。私は残念ながらこれらの適切な配慮がなされているのかと度々疑問に思う。残念ながらトマスは神学者としてではなくあくまで中世思想、哲学の一人として研究、探究されるのみとなっている。無論私は教条主義的なトミストを標榜するものではない。特に私がデカルトの哲学を重要視するのは彼のスコラ学つまりは教科書的なトマス主義に対しての批判の視線には大いに学ばなければならないし、多くの人が述べるように近代哲学の始祖であり、また同時に悪の根源と揶揄されるデカルト哲学への批判的検討も同時になされる必要があるからである。どちらにしろ、デカルトの哲学はどのような形であれ始末しなければならない。
眠い、実に眠いが本題のパスカル『パンセ』である。ヤンセン主義についての諸々の論点については知らないのでここで論ずるつもりはないが、私はパスカルの取った態度は誉められるべきものではないと考える。自然哲学の問題を批判するならいざ知らず恩寵や啓示に関する事柄で教皇の教説に違う主張に固持するのは誤った判断だと(主張され、争われる内容は兎も角として)言わざる得ない。これに対してデカルトの取った態度は対照的である。ガリレオの教説の問題ゆえに彼は自身の天体論に関しての出版を見送る判断をした。無論これは後になって教会がガリレオへの判断が誤ったことを認めたのであるし、当時から出版を奨める周りの声があったにも関わらず彼は自身の暫定的道徳律に従って出版を見送った。デカルトの暫定的道徳律とはつまるところ教会の述べるところと同じものである。
残念ながら魂の救いに関連することを主張するパスカルは自然科学(つまり諸々の哲学)を扱うデカルト以上に暫定的な道徳律に従うべきであるのに従わなかった。パスカルの主張に理があり道徳を訴えるものだとしても彼のとった態度は文字通りの意味で不道徳の極みである。
皮肉なことであるが、デカルトはその主張によって自由意志と理性を独立させた神なき人間の種を撒いたかもしれないが、パスカルは主張において意志の堕落と恩寵の優位を謳ったが彼自身の有様は彼の反対論者の主張する自由意志と理性を持った神なき人間の原形となった。
結論は書き終わったのでねる。要するに、デカルトパスカルの一致が問題なのだ。