要理教育、つまり一般に宗教教育と呼ばれるものについて
さて、最近もとい、少し前まではてな村では“宗教を語るやつが少ないよね”という話題が注目浴びていたようなのですが・・・私もやはり反応すべきでしょうか、ブクマでid:polynityさんに呼び出されていたようなのですが。
以前のエントリーで神学は三名の読者を想定しなければならないとしましたが、そのカテゴリー分けをあらためて取り上げておきたいと思います。
- 教導職につくであろう人々(聖務者、教役者志望)
- 兄弟姉妹の皆様(信徒)つまるところ、信徒使徒職にあたっての教導
- その他の人々(未信者)つまるところ、信仰に招くための教導
上記三名の読者を想定しなければならないと規定した上で、私は当然ながら聖務者に必用な神学教育を施すという義務を果すだけの能力を意味するSTLを現時点では持たない以上、私がどのように(それが稚拙であろうとなかろうと)神学的な思弁をするとしても読者1について私は考慮する必要が“現時点”ではありません。
ただ、私もキリストに招かれ、教会に結ばれた所謂『神の民』の一員ですから当然信徒の召名を受けていますし、信徒として信徒使徒職を果す権利と義務とでも言いましょうか、少なくともそのような役割を果せる範囲で果したいと思います。ですから以前記したように、読者2についてあくまで一信徒という立ち位置からの思索がいくらかでも信仰を同じくする他の人々の益となることを願ってやまないし、この点の配慮を忘れての思索をおこなわないよう注意深く進めて行きたいと思う、と記しましたし、読者3について、以前私はこの立場にあったし、私自身導かれて今の有様になったことから考えるに、真摯な疑問や素朴な疑問ほど神学にとり重要でまた理にかなった重要な問いを含むことをまず記しておく必要がある。信仰を得るか否かは、あなたがた自身と神のみぞ知ることであるから私がとやかく割り込んで述べるものではない。であるが、興味や関心はその特性上問いを含むものであり、それに対して私の知りうる範囲で真摯に答えて行きたいと思う、とも記しました。
以下においては話をよく理解して頂くためと私自身上記の読者への書き手としての責任を明確にするために次のように記してから始めたいと思います。要するには手短な自己紹介とシグニチャーにすぎませんが。
手短に信仰にかかわる事柄を中心にした自己紹介をしたいと思います。私は現在上智大学の神学部神学科で学ぶ学生です。現在二回生になります。私が洗礼を受けたのは三年前のクリスマスになります。私は現在もそうですが以前も中学、高校と広島のイエズス会の学校で学んでいました。私がそこで受けたのは信仰に関して言えば週一回の倫理の授業と放課後週一回の聖書の勉強会でした。洗礼を受けたいと思ったのは在校中ではなく卒業した後、受験浪人をしている最中でした。それ以前でキリスト教に関係するのは幼稚園が福音派のところでしたが、記憶にあるのはクリスマスの聖劇と卒園の際に聖書を贈られたぐらいでしょうか。小学生の6年間は公立の学校でした。
それは兎も角として、以前からそのようにしようとできうる限り努力しているようになるだけ、私自身がそうであったように今だ信じていない人、キリスト教や神学について知らない人にできうる限り通じるように書くことが私の目的、目標であることに変わりはありません。ですから、あくまで私の力点は以前の私がそうであったし、また私の中高の友人たち、後輩たちがそうであるように読者3にカテゴライズ人たちを主な読者と想定して書くことにしています。
ですが、今回のエントリーの力点はカテゴリー2の読者に重点を置いたものとなると先に断っておかなければなりません。ですが、できうる限り多くの人の益となることを願って。
必用な事柄について以下においては次の書籍を主に参照しながら話を進めていきます。読者の便宜を図るためできうる限りの引用をしながら記していきたいと思います。
- 『カトリック教会のカテキズム』ISBN:4877501010
- 『カトリック新教会法典』ISBN:4641002576
- 『カトリック教会の教え』ISBN:4877501061
- 『第2バチカン公会議 公文書全集』ISBN:4805656042
- 『教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告 要理教育』ISBN:4877500103
- アウグスチヌス『教えの手ほどき』ISBN:4423392046
現状の把握
まず、私の受けた教育についてお話しするのが適当であると思います。先ほど記したように私は中高とミッションスクールで学び洗礼を受けたある意味で典型的な成人洗礼の一例となるかと思います。今回は要理教育とくに「カテキズム」に関して記していきます。
中高の倫理の授業においては『カトリック教会のカテキズム』を使用することはありませんでした。倫理の授業を受け持つのは初年次の中学一年と最終学年の高校三年は必ずそのときの校長先生が受け持っていました。それ以外の授業は学校にいるイエズス会士が主に行なっていました。無論宗教科の教員もいましたが、私が宗教科の教員に教わったのは一年だけでした。授業の内容は教員それぞれに任されており、他の教科のように通年、連続的なカリキュラム構成はなかったように思います。(もしかしたら各教員で連携していたのかもしれませんが、記憶を辿る限り連続性はなかったように思います)
授業は聖書を用いての倫理の授業が勿論ありました。善きサマリア人の話や放蕩息子の話などを神父様が文字通りお説教するという形式のものです。ですが、この形式はあまりなかったように思います。ただ、この形の授業は受けが悪く、もしかしたら私が居眠りをしていて記憶がないのかもしれませんが・・・。
もう一つの形式は哲学に関するものでした。これは非常に興味深く、私は熱心に授業を聴いていました。最後に社会倫理についてつまり、社会正義についての授業もありました。これについては幾分反発も覚えたのですが、これもまた熱心に聴きました。
ですが、今になって思えば私の信仰に対して糧になったのは週一回放課後にあった聖書の勉強会でした。ただ、ここではその内容自体に立ち入って思い出話をするのは本筋とはなれますので控えますが、内容はルカとマルコ伝を中心に新約聖書を読んでいました。ただ、途中から私と司祭のマンツーマンの講義となったのと私が熱心だったから?なのか6年間で新約聖書にはほぼ全てに目を通してしまい、最後の一年は暇なので旧約を読もうかという話になりました。洗礼を受けたいと申し出たのは卒業した後のことで在校中に聖書の勉強会でお世話になっていた司祭にそのまま継続して聖書の勉強を続けてもらい洗礼を受けました。洗礼を受けたいと申し出たあとの勉強も聖書が中心であとは秘跡について大まかに説明してもらっただけでした。ですが、最近の洗礼のための勉強は要理ではなく聖書が中心のようですので恐らく私が受けたのはオーソドックスな勉強であると思います。
ただ、私が驚くのは幼児洗礼を受けた人などの話を聴くと、教会学校で要理の文字通り問答があり、試験のようなものがあり非常にウンザリしたなどの話を聞いたりしますので、私の受けたのとは異なる要理教育もあるかとは思います。
それは兎も角として、神学を学ぶようになりカテキズムに記されている基本的な事項の重要性と意義が見えてくるので最近になって『カトリック教会のカテキズム』を購入し、自分で学んでいる最中です。ただ、一つ思うのはカテキズムに記されていることは聖書と同様に非常に有益であるし、現行のカテキズムそれ自体が第2バチカン公会議の精神故に記されたものなのですから、第二バチカン公会議に従うと主張する方がこの重要な書物を軽視するなどと言うのは想像のし難いことですし、何より悲しいことです。
教導権と言う問題、羊と羊飼いは何が違うのか
さて、これは神学を学問として学ぶにしろ、教義を信仰の為に学ぶにしろつきまとう問題ですが、そもそも誰が、どのような事柄を、どのような方法で教えるのか?と言う問題が出てきます。
神学について端的に述べてしまうと教導権が認めた教授資格、つまりはSTLが問題となります。神学を学問として教授するには教皇庁の認めた資格、つまりSTLが必要です。なお丁度よい具体例―信徒と聖務者の役割についての考察―となると思いますので次のことを取り上げたいと思います。
教会法典の第229条に次のようにあります。
第229条
(1) 信徒はキリスト教の教えに従って生き、自らそれを告げ知らせ、必用な場合それを擁護し、かつ使徒職の実践に自己の役割を果たすことができるように各自の固有の能力と立場に応じて、その教えに関する知識を習得する義務を有し、かつ権利を有する。
(2) 信徒はまた、教会立の大学若しくは単科大学又は宗教関係諸学研究所において教授される聖なる学問に関する深い知識を習得する権利、講義にあずかる権利及び学位を取得する権利を有する。
(3) かつ信徒は、適正要件に関する規定を順守し、正当な教会権威者から聖なる学問を教授する任務を引き受けることができる。
以上のように教会法には記されています。ではこれをどのように考えればよいのでしょうか?
まずこの規定の位置づけについて話さなければ話が始まりません。この規定は教会法の第二集 神の民 の第2部 信徒の義務及び権利(第224条~231条)の一部をなす条項です。この第二集はまず、「キリスト信者」とは洗礼によりキリストにより教会に、それはつまりペトロの後継者及びそれと交わりのある司教たちによって治めされるカトリック教会*1に結ばれた神の民であると述べ、キリストに結ばれる故に各人各様に、キリストの司祭的、預言的及び王的任務にあずかり、各自の固有の立場に応じて、それぞれの使命を実践するよう神に召されていると述べます。*2次いで洗礼により結ばれたキリスト信者の中には、法的に聖職者と呼ばれる聖務者があり、他は信徒と呼ばれると述べます。*3
さて、次いで教会法は「すべてのキリスト信者の義務及び権利」として以下の事柄を述べています。
すべてのキリスト信者はそれぞれ固有の立場と任務に応じてキリストの体の建設に協働する*4ために、教会との交わりを常に保ち*5キリストに招かれ結ばれた教会に対して有している義務を慎重に果たさなければならないと述べます。*6 それはつまり、それぞれ固有の立場に応じて、聖なる生活、教会の発展及び絶えざる聖化の促進に尽力することであり*7、また、神の救いのメッセージが全時代全世界のすべての人によりいっそう伝達されるよう努める義務及び権利を有していることを意味しています。*8
では、それぞれ固有の役割に基づくとはどういうことなのでしょうか、特に207条で取り上げた聖務者と信徒の違いに留意して考えていきます。
第212条
(1) キリストの代理者であるがゆえに、教会の牧者が信仰の教師として宣言すること、及び教会の統治者として決定することに対し、キリスト信者は自己の責任を自覚し、かつキリスト教的従順を実践しなければならない。
(2) キリスト信者は、自己に必要なこと、特に霊的な必用、及び自己の望みを教会の牧者に表明する自由を有する。
(3) キリスト信者は、各人の学識、固有の権限、地位に応じて教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する権利及び時として義務を有する。同様にまた、信仰及び道徳の十全性並びに牧者に対する尊敬心を損なうことなく、共通の利益及び人間の尊厳に留意し、自己の意見を他のキリスト信者に表明する権利及び義務を有する。
212条の1項で記されているようにまずもってキリストの代理者として宣言されることに従う必用があります。それは無論教皇また司教に名においてなされるものです。さて、ではここで述べられている牧者から受けることのできる援助とは具体的にはどのようなことなのでしょうか?
213条に次のようにあります。
第213条
キリスト信者は、牧者から教会の霊的な善益援助、特に神のことばと秘跡による援助を受ける権利を有する。
ここで記される“神のことば”と“秘跡”は更に具体的に述べるべきですが、何よりも念頭に置かなければならないのが、ミサであると私は考えます。何故なら、我々はミサにおいて福音朗読として“神のことば”を聴き、聖体を受けるからです。
まずこのことからもわかるように牧者に求められているのは霊的な特にミサにおいての奉仕であるということです。このことはミサにおいて端的に聖務者に固有の役割が見いだせることからも明らかです。それに対して神学を必用な規定を満たした上で教授、研究することは聖務者に固有の役割ではありません。つまりは、信徒にも、と言うよりもむしろ全てのキリスト信者に開かれたものだということです。
では、教会法においては信仰に関しての教育および研究に関してどのようなことが記されているのでしょうか?
第217条
キリスト信者は、洗礼によって福音を教えにふさわしく生活するよう召されているので、人格的に成熟し、救いの神秘を知り、かつそれを生きるよう適切な養成を施すキリスト教教育を受ける権利を有する。
第218条
聖なる学問の研究に従事する者は、自己の専門とする事柄に関して研究を進め、自己の考えを賢明に表明する正当な自由を有する。ただし、教会の教導権に対してふさわしい恭順を示さなければならない。
まとめ
さて以上の事柄を整理してみましょう。
まず、洗礼によってキリストによってペトロの後継者により治められる普遍の教会に結ばれたキリスト信者は神の民としてキリストが教会に託した任務をそれぞれ固有の能力、立場に従って果たす義務を有する。
そして、洗礼によるキリスト信者は法によって定められた聖務者とそのほかの信徒とに分けられる。聖務者および信徒はキリスト信者として共通の役割を負うとともにそれぞれまた個別の役割をも負う。信徒の義務及び権利は第224条から231条に記され、聖務者すなわり聖職者に関しての規定は第232条から第293条にわたって記される。
ここではキリスト信者及び特に信徒に関連する事項を要理教育、神学つまりは聖なる学問の教授に注目して述べることとする。
まず、洗礼により教会に結ばれキリスト信者となったものには教えにふさわしい生活に召されているが故にキリスト教教育を受ける権利を有している*9のであり、また信徒としてキリスト信者の役割を果たすに当たり必用な知識を習得する義務と権利を有している。*10信徒の得ることのできる知識は大学において教授される聖なる学問も含まれる。*11と同時に、必用な学識を有する信徒は大学において聖なる学問の教授を信徒として引受けることも可能である。*12但し、信徒であってもキリスト信者であるのだから、聖なる学問の研究に従事する場合、自己の考えを賢明に表明する正当な自由を有すると共に、教会の教導権に対してふさわしい恭順を示さなければならない。*13
そしてまず何よりも重要なことは権利を主張する際には、教会の共通善及び他人の権利、並びに他人に対する自己の義務に配慮がなされなければならない。*14