病者の塗油の秘跡

 以前書いたように難しいこと(諸哲学、諸科学)についてはなんも述べる気がないなったと言うことで、教義の狭義の意味での神学について以後はなるだけ機会を見つけて考察し、書いていくことにしたいと思います。
 今回は病者の塗油の秘跡について、というか正確に書くと病者、特に病と死についての雑文です。
 カトリック教会では2月11日を「ルルドの聖母」の日として典礼において特に病者の癒しを願ってミサにおいて祈ることができます。(できますと述べると少し変ですが、通常の典礼で祈ることもできるので)また、前教皇ヨハネ・パウロ二世は、1984年の同じ日に『サルヴィフィチ・ドローリス―苦しみのキリスト教的意味―』を発表し、翌年の2月11日に教皇庁医療使徒職評議会を開設しました。そしてこの日は“世界病者の日”として病者がふさわしい援助を受けられるように、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必用な助けを得られるように、カトリックの医療関係者だけでなく、広く社会一般に訴えていく日とされています。*1
 なんと言いますかようするに、ルルドの聖母に取次を願い、病者の癒しについて考察するのが適当な時節かなと思うわけです。
 それはそうと、本当なら私はこの春にルルドとザビエルの生家諸々の巡礼旅行に誘われていたのですが、東京に残ってやるべきことがあるため残念ながらお断りしました。行きたかったけど仕方がない、今度機会がまたあればそのときにということで・・・あーめんどくさい。
 そんな、ことはどうでもよいのですが、兎も角“病者の塗油の秘跡”について考察します。
 

  • 初めに

 もう一度確認事項、神学をする際には…

  1. 旧約・新約聖書、聖伝
  2. 教会の教え、つまり教導
  3. 教父の文章
  4. 聖トマスの神学
  5. 専門の神学者

 第一に聖書が確認されなければならないのはこれは当然だと思う。次に参照されれるのが長い時間積み上げてきた信仰の遺産である教会の教え。無論疑問があるにしろ、カテキズムや回勅が先に参照されなければならない。で、回勅等を読めばわかるのだけど、回勅にしてもカテキズムにしても聖書は当然のこと教父やトマスが参照されてるので批判しようとするしろ、より知ろうとするにしろ必然的にそれらの文章に当たっていくことになる。で、最後の最後に現代の神学者の諸説が参照される。
 正直、1と2でお腹一杯になるけど。1から5の流れでやっていくのが一番間違いがすくないし、理解が容易いように思う。5から入って1に行くと途中で力尽きて一番大事な聖書に書いてあることつまり、啓示がかすんでしまい、それによって得られる恵みが受けれなくなってしまう恐れがある。神学やってて異説にたどり着くのは概して神学の諸説から入って学ぶから起こる問題じゃなかろうかと私は思うのだけどどうなんだろうね。なんにしろ、5から入る場合は全体が見えにくいと言うのもあるので気を付けなければならない。
 神学によって祈る、つまり“知解を求める信仰”という大原則が果たせないなら神学なんてやらないほうがましだし、祈れない神学はそもそも神学ではない。
 でも、なかなか難しいんだよな、“〜の神学”みたいな中途半端な代物ばかり広がってるせいで神学に興味を持つ場合、5から入ると言う可能性のほうが高いので・・・だからこそ1から入るための神学書があってしかるべきなのだけど、わたしそれに適した書物をいまだ知らない。
 何が言いたかったのかというと、何事もきちんと順序よくやっていくのがよいだろうと言うこと。
 以前記したように神学は神について学ぶことであるけれど、その神について教えるのは神自身だと言うこと、そして学ぶ姿勢はイエスに対して教わっていた弟子たちのものに倣う必要があるということ〔聖書・聖伝〕更に述べると、教え、導く役割と力を負った弟子たちに〔ペトロの役割〕に従う必要が神学をやる際には必要になる。〔教導〕あとは、必用に応じて教会が保持する豊かな信仰の遺産、つまり教父、教会博士たちに手助けされながら“知解を”求めながらmeditate、黙想/省察を進めるのがよいだろうと少なくとも今の私には思われる。

  • 本論

 さて、今日は昼からミーティングがあるというのに相変わらず無計画場当たりに書き始めてしまった。まず先に書くべきことを整理しておく。まず“秘跡”なる“言葉”が日常的に飛びかう領域にいない人にこの言葉の“意味”するところを説明しなければならない。
 必然的に『秘跡論』をする羽目になるし、秘跡論をしようと思うと啓示について書く必要が出て・・・啓示について書こうとすると救い主たるイエス・キリストについて書かなきゃならなくなって、それは要するに三位一体論とキリスト論になるわけで・・・なんと言うか、私の手に余る問題なのです。神学として論じようとすると。ですが、秘跡は信仰者として受けるものですし、受けているということはそれを知っていると言うことです。ですから、そこからのんびり始めてみたいと思います。
 以前に私は“洗礼”に関して幼児洗礼だとかについてを出発点にして少し秘跡について触れています。*2全然参考になりませんが・・・。そのときも時間無いから中途半端に論を閉じている。情けのない話だ。

  • ちょー、やっぱ時間足りない

 いつもの如く頭に寝癖をつけて出かけることになりそうなわけですが、トマスがもう書かないとか晩年駄々をこねた理由もわからなくない。私も多分最後まで時間ない、時間ないとわめくにちがいない。
 時間ないので必要な応答だけしておきます。id:polynityさんにブックマークコメントでid:DrMarksさんに聖書から始めての(上述)神学入門書をお願いしてみては?と言われたわけですが、私もいくらか期待しますが(プロテスタントの立場からの神学というのを見てみたいと思わなくもない、。ちなみにカール・バルト『ロマ書註解』は何とか読んだ。ティリッヒとブルトマンはド阿呆神学者だと思う。つまらなかったので途中で投げ捨てた)
 今回のような秘跡についての(カトリックの意味での)説明をMarks先生に求めるのは酷だと思います。それはMarks先生が専門であるとかないからだとかではなくて、“原秘跡”であるところの救い主の理解に相違がないにしても“根本秘跡”であるところの教会の理解に相違があるプロテスタントの方に諸々の秘跡の説明を求めるのはお門違いです。でも、なんともあれなことにカテキズムでカトリックの信徒が説教を受ける羽目になっているわけですが・・・ある意味プロテスタントのあるべき姿なのかもしれないけれど。というか、端的に言って情けのない。私がやれる範囲でやる。
 で、ついでもついでなのですが、“尊厳”についてMarks先生が引用しているカテキズムの項が今回取り上げる「病者の塗油の秘跡」と直接に関わってきます。尊厳死について仮に“カトリック”の信仰者が考えるとするならば、まずすぐに思いつくのが「病者の塗油の秘跡」についてです。
まず当該の箇所を全部引用しておきます。以下『カトリック教会のカテキズム』の箇所はCCCと略記します。
「死者に払う尊厳ccc2299-2301」

CCC2299
臨終にある人々を見守りその世話をしながら、彼らが品位を保ち心安らかに最後を迎えることができるように手助けするよう心掛ける必要があります。彼らは近親者の祈りによって支えられるべきなのです。近親者は、病人が生きておられる神にまみえる準備となる秘跡を適当なときに受けることができるように心掛けなければなりません。

 まずこれは先に述べておくべきことでしたが、聖トマスの『神学大全』を読む際にも述べたことですが、書籍は各項目が秩序を持っているにしても書籍全体で理解されなければ意味をなしません。このことはカテキズムにも該当する事柄です。と同時どのような書籍であるか冒頭部で『神学大全』同様述べているのでその点をまず先にふまえた上で読み始めましょう。(Marks先生はわかって引用されてると思うので問題ないのですが、教会法にしろカテキズムしろ、私みたいなド阿呆が断片的に振り回す場合の危険をまず読者に警告しておく必要があると思いました)
 でです、当該の病人が「生きておられる神にまみえる準備となる」“秘跡”が問題となるわけです。で、具体的に「病者の塗油の秘跡」がどんなもので、それがどのような意味を持つのか、秘跡自体の問題として論じられるべきなのですが・・・時間がないのでかいつまんで要点を述べます。
 まず、人間の尊厳とは神に招かれている存在であると解します。つまり、被造物であり、かつその被造物中で特別に神に招かれた存在である人間の本性は超越したものに存在として開かれたものです。無論理性においてもそうなのですから神学なる学問が存在するのです。
 そして、イエス・キリストの救い、つまりは死者の中から復活し云々のところ、キリスト者にとっての救いとは手短に述べると永遠の命(それはイエス・キリストの言葉、行いによって示されるもの=啓示となります)であり、それは秘跡により形あるもの、しるしとして示されます。
 死者の尊厳とは言うまでもなく(皆生れたからには死ぬのですからこれは必然的に人間全てとなります)、彼等の受ける苦しみが十字架での苦しみに結び付けられると共に後の復活にも結ばれるよう祈ることに他なりません。そして苦しみを受けている病者が信仰を持つものであるなら、彼ないし彼女が秘跡を通して救いに結び付けられるよう聖務者はむろんのこと彼、彼女が属す共同体の成員、まず第一に家族であり、医療従事者であり、教会共同体が配慮すべきだとカテキズムは述べているのです。
 ということで、信徒としての模範解答にはなったかなとは思うのですが、信仰について考えるとそれはどうであれ神学となるのですが、必然的に復活であるとか救い、要はキリスト論と三位一体論に行き着くわけです。やっぱし、まだ技量不足だ。時間不足だという以上に。
 家に戻るのは夜遅くになってしまとは思いますが、後で本論部含め書き足していきます。 

10:47 気づいた誤字を訂正。とりあえず家を出る。

*1:カトリック教会情報ハンドブック2009』参考

*2:http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20081023/1224775493