座談会 現代の社会における大衆 『世紀』10月号、昭和24年

現代の社会における大衆 田中耕太郎(以下略記:田中) 丸山真男(以下略記:丸山) 猪木正道(以下略記:猪木)

一  現代社会の構造
二  戦争と革命
三  政治権力と経済権力
四  経済の民主化
五  二つの暴力
六  釘の一本ぬけたヒューマニズム
七  大衆の救済
八  デモクラシーにおける大衆
九  大衆の文化参与
十  アジア民衆の停滞性
十一 主権在民に驚いた日本人
十二 依然として八・十五以前
十三 責任者は誰だ
十四 救済をどうすべきか
十五 社会運動は共産党の専売か
十六 民衆に同化した宣教師達
十七 カトリックに何を期待するか

以下引用者の抜粋

 座談会がおこなわれた昭和24年、つまり1949年はGHQ統治下の日本である。座談会冒頭の編集者の発言からもわかるように戦後復興の混乱を社会背景におこなわれた座談会である。

一、現代社会の構造

 編集:…ご存知のように現在は経済九原則の要求にそって我が国の経済をいかに再建するかということで、官公吏のみならず、私企業においても人員整理が行われ大量の失業者が出、そのことから起こる社会不安というものは非常なものであります。然るに政府においてこれが対策を十分講じていなかったということで労働攻勢の波はますます強くなって来ています。一方経済不況の影響をうけて国民お生活も徐々に苦しさを増して来ているようなわけで、日本の置かれている社会状況の特殊性というようなことも考え合わせた時、現在の社会不安というものは極めて複雑な様相を呈しているのではないかと思うのです。…

 編集者の述べる提案、つまり「現代の社会状況」を分析し、それに対して新しい社会をどういう風に造ればよいかを論じていく、に対して丸山は

 

丸山:…今日は個々の具体的な事実を検討して行くよりも、もっと広く、いわば文明論的な見地にまで拡げて論じて見たいと思うのです。そこで近代の延長としての、しかも所謂「近代」から区別された現代の社会の最も大きな特色はどこにあるかというと、色々な点から指摘できるでしょうが、私の考えでは二つの点からアプローチできるのではないか。

 丸山は文明論的な観点より以下二つの論点を提示する。

1:産業革命以来の技術と交通いわゆる機械文明の以上は発展に伴って、国家というものがますます装置化して来たこと、即ち国家行政というものが非常に複雑な、いわば精巧な機械のようになり、しかも量的にも質的にも非常に厖大化したという問題。
2:人間生活の集団化による大衆というものが非常に大きな社会的な力を持って来たということ、つまり資本主義の高度化と技術的な発展が一面に国家権力の目的がかつての様にシンプルな秩序維持―つまり国防と警察に集中されていた段階からわれわれの全生活部面にコントロールを及ぼすほど複雑膨大になって行った。

 つまり

丸山:上からと下からの社会生活の組織化集団化の進行―これが現代文明の最大の特色で、しかもその組織化がもはや国際的な規模をもつようになって来た。こうした傾向が推し進められるならば通常近代社会の支柱とされている個人の人格的独立とか、個人の自律とかいうものは巨大な装置と集団の中に李没してしまうのではないかという問題、それが大体世界の思想家によって共通に取り上げられている現下の最大問題だと思うのです。

 丸山の提案に対し、田中、猪木両名とも国家・社会と個人の自由、人格の尊厳の関係を論ずる点で同意する。

二、戦争と革命

 二十世紀は戦争と革命の世紀だとはよく言われることであるが、すでに「戦争と革命の世紀」“だった”となって久しいし、そうなるだろうから割愛する。

三、政治権力と経済権力

 丸山:…十九世紀中葉以後の非常に大きな問題は経済力、いわば経済的な独占とかそういったものの力が巨大になって来て、それが国家権力と掴み合い狭い意味の政治権力と並び、むしろそれ以上に巨大な支配六を民衆の生活のうえに張るようになって来たわけで、いままでもっぱら政治権力に対するコントロールばかり考えられて来たが、非常に巨大になった経済的独占体の支配力をいかにコントロールし、社会的な責任をもった生産機構を、いかにつくるかという事を考えなくては、田中先生の言われた人間の道徳生活の確立という問題も解決されないのではないかと思うのです。

 ここで丸山が述べる事柄は今まさに世界で問題されていることではないだろうか。つまり、市場(マーケット)に道徳(モラル)を適用するにはどうすればよいのか、またそのモラルはどのようなものであるのか、である。

四、経済の民主化

 田中:そういうデモクラシー的な政治に対して経済の現実が抵抗して行ったという事に了解したのですがね、そこでそれをどういうふにしてアダプトするかという問題で話を進めるが、私有財産制度とか相続の問題がアダプトしないとも言えないと思うのです。然らばといって資本主義的経済社会の崩壊というものに眼を閉じているわけでは決してなく、それでやはりこの政治生活において個人本位の基本的人権というものがる。しかしそれはやはり乱用もあり得る。また公共福祉のために利用せられることもあり得るし、経済をどういうふうに民主化し政治的の民主主義にアダプトすうかという事も、政治と同じような原理が考えられるのではないか、そこで経済的な自然法というものはどうかという問題になって来ると思うのです。

五、二つの暴力

六、釘の一本ぬけたヒューマニズム

 共産主義に欠けているヒューマニズムについての議論。共産主義全体主義的特長等について、我々読者は座談会出席者と異なり歴史的な幾つかな具体例を知っているので割愛する。

七、大衆の救済

編集:日本もそうでありますが、大衆は全世界において大きな問題を投ずるものであります。マルキシズムはたとい大衆を救済することはできなくても、その努力は一つの重要な事実です。大衆の救済と教育についていかがでしょうか。

丸山:…問題は現代社会の集団化、しかも集団化が階級的分化と結びついていることを考えるとき、現代の人間の救済というものはもはや個人的な形では出来ない。やはり集団的に集団を通じて行わなければならない。その日の生活に追われ或いは刹那的な享楽に生きる大多数の民衆に生活への意欲と未来への希望、現代社会に生きるハリと価値といったものを果して、いかなる原理といかなる制度が現実に提供しうるか、それによって、その原理なり制度なりのレーゾン・デートルがきまるのではないか。近代社会における個人の独立とか自律とかいうことも、現実にそれが問題になるのは、一部の知識階級だけで、世界の大多数の民衆はそれどころじゃなく、動物的な生存条件から辛うじてはい上がるための労働で精一杯なのが実情です。こうした精神的価値にあまねく大衆を参与させるための基盤をつくり出すことが当面の問題であって、そういう現実の問題から眼を閉じて抽象的に道徳とか人格の確立を説くことでは足りないと思うのです。

田中:だんだん話が軌道に乗って来たが、マルキシズムヒューマニズムの関係で、世間では単にそのヒューマニズムを考えて共産党に入った人が相当にある。その例は余りに多く見せつけられているが今の話の様にマルクス主義ヒューマニズム的なものを持っているとすれば、マルクス主義の本質というものと矛盾している。ほんとうに一般大衆にヒューマニズムの要求を満たさせる為には、個人的なただ道徳宗教だけではダメである。カトリック的にみれば、宗教は決して単なる個人的なものではなく、あくまで社会的な本質を帯びており、宗教に於いても人間の社会性を無視してはならない。すすると宗教は大衆の教育発達にも大いに意味をもっている。そう見れば宗教とか教育とか或いは芸術運動、いろんなものがあるが、そういう一般民衆自身をインテレクチュアルな人間―広い意味の文化運動に参加させなければならない。それで問題は、それが果たして政治的デモクラシーの原理、されに多数決の原理というものにピッタリ合うものかどうか、ということです。僕はアリストクラシーというものが調和されるところは、分化の範囲内においていわゆる衆愚政治にならないように、少数者が先覚になって指導的役割を今後も演じなければならないのではないか、歴史を見ればそうである。そういうようなことも将来の社会を理想に近づけて行く場合に考慮されなければいけないのではにかと思うのです。

八、デモクラシーにおける大衆

丸山:田中先生の提出された問題は非常に重要で、真剣に考えなければならぬ問題を包含していると思うのです。アリストクラシーの言葉だけを聴いて身震いしたり、アリストクラシーだから反動であるということは簡単に言えない。私もその問題は容易に答えられないのですが、私の思うのに、第一に人間の歴史を見ると大衆がほんとうに我々の歴史をつくる要素として認められて来たのは、やっと十九世紀、一八三二年のリフォームビル以後中産階級、さらにそれ以下にだんだん解放されるようになった。今日では常識になっている風雨選挙がわずか百年前にはいかに嫌悪するべきものとして映じていたかということは、当時の歴史を見ると驚くほどで、トーリーの中にはそんなことになればたちまち世の中が無秩序と混乱に陥ると断言した者が、少なくなかった。流血の惨事まで起こしてチャーチストが先頭に立って選挙権拡張の運動をやったわけです。婦人参政権になるとイギリスでさえ第一次世界大戦以後です。だからデモクラシーは考えようでは随分長い歴史をもっているようであるが、大衆的な基盤をもったデモクラシーはきわめて新しいものである。政治の世界でさえそうですから、社会生活のあらゆる分野における大衆の解放は、まだやっと緒につきはじめたばかりだということを忘れてはならない。大衆がネクリジブルな要素、エドマンド・バークのいう「豚のごとき大衆」ではんくなって、政治、経済、文化の上に発言権を持って来たのは世界的にも極めて新しいので、解放された大衆がどれだけの文化創造力があるかということは、まだ未知数だと思うのです。現代においては確かに混乱なり矛盾なり普通言われている粗野さというものを大衆が示しているにしても、我々は最早マツセというものを昔のように歴史の単なる客体としていわば植物的な存在にとどめて置ける時代に住んでいない。結局大衆のヴァイタリティをあくまでも信じ、大衆の自発性、能動性をますますあらゆる方面に伸ばせて行って積極的に文化の担い手たらしめる以外に方向はない。大衆の行動に粗野や行き過ぎがあるからといって、これを外から枠にはみょうとしても、現代の混乱と矛盾は解決出来るものではない。そういう意味では田中先生の言われる自然法的なものが具体的に適用される時にはやはりそういった歴史的な考慮を加えらるべきではないでしょうか。
 現代においてはどんな反動的な人でもアリストテレスのように奴隷制が人間の自然本性に合致しているとは思わないし、また中世の身分的な支配関係、人間の身分的な不平等を当然のこととは思ってはいません。思想史を見れば、いかに偉大な思想家でもその時代の特殊的な条件を永遠化する危険性から自由でなかった事を示しています。そういう意味で「自然」ということも固定的でなくダイナミックに理解しなけばいけないと思います。

九、大衆の文化参与

田中:今のお話は全面的には正確とは思っていないが、大衆の文化関与とうことには同感です。ただこういうことは言えるのじゃないか。大衆の政治関与の方から言うと例えば税金をいくらにするかということや人身保護を強調する基本的な人権問題一般については一部のものが決定するべきでない。僕も決してアリストテレスを全面的には承認するのではないが、たとえアリストテレス的に考えてもそういうことはデモクラシーの分野だと思うのです。しかし文化の範囲においては大衆はせいぜい評価しエンジョイする立場にあって、クリエートする方は常に少数者です。最後の芸術、学問は特に選ばれた人間が常にパイオニアになって、大衆は受益者なのです。そういうパイオニアはその時代には不遇です。ベートーベン然り、ゲーテでさえもそうであった。ベートーベンはギャラリーの公衆の為に作曲したのではなかった。預言者はふるさとに入らないがそれがポピュラーになるのは、やはり大衆の中の進んだ人が大衆を動かしている。そういう現象を考えて見る時に文化の―あるいは極端な場合においては、政治の方面にも一つのある意味アリストクラシーを認めることが出来る。もちろん僕は政治が一つの習得されなければならないテクニックで、政治家だけが日本の政治を支配するべきだとは思わない。基本的人権とか基本的の政治的権利義務について、あるいは税金の問題についても大衆が皆発言権を持つということは歴史的に努力の結果獲得したことであり、政治というのは元来大衆的なものなのです。

丸山:私は確かに勝れた文化は勝れた個人によって生み出されるということは否定しないがその場合そういうことと大衆が常に受益者であるということと結びつくかどうか。・・・文化を直接的に造り出すのは勝れた個人ではあるが、そういう個人が生み出されてくるためにはそこにおける大衆が、政治的社会的に相当解放されて相当の文化的レヴェルを持っている事柄とが前提ではないかと思うのです。…

田中:僕はそれを否定しているわけではない。同時に貴族主義的なギリシヤのヘレニズム文化を是認している事でもない。民衆と天才との間には深い関連がある。ベートーベンはあれだけ偉大であったのはよい意味の民衆、ほんとうの民衆―モツプではない―との間に血が通っているという前提があったからです。ゲーテも同じだと思う。


以下10から15までは当時の社会状況に対しての具体的議論なので割愛する。

十六、民衆に同化した宣教師達

この年の聖フランシスコ・ザビエルの400周年事業に合わせての記事であり、目新しいこともないので割愛する。

十七、カトリックに何を期待するか

編集:・・・原理と実践との間には何かくい違いが残るではありましょう。しかし正しい原理が先だと確信致しています。原理の混乱や誤謬が現在の不安をもたらしたのではないか。原理として猪木さんのいわれたように、キリスト教は徹底した人格主義であります。人格の尊重なしに大衆の救済も覚束ないと思います。そこでキリスト教が日本の大衆の発達にも大きな意味を持っていると思います。キリスト教はどの方面にも人格の尊重という原理を裏切ることはない。ここで宗教的神学低問題に深入りするわけにはまいりませんが、教権というものも、人間を非人間化することは絶対にないと思います。権利そのもの又権力そのものも人間の本性にそむかないものであり、その点でプロテスタントは誤っているところがあります。問題はただ権利や権力は是か非かとうことだけでしょう。教会の中における権威はキリストに由来し、純粋に霊的なものであります。実践について最後にもう一言加えることを許されるならば、政治問題、社会問題についてご存知のようにカトリックの陣営の中でも意見が異なり、いわば右とか左とかいわえる傾向も表れています。その点ではきわめて自由なわけです。

 という風に編集者の言で座談会は終了するのですが、改めて考える必要があるのは、この後に開催された第二バチカン公会議公会議によってよりいっそう現代社会に開かれることに教会はなったのですが、果たして日本の教会がここで論じられていることの延長にある日本の社会に対してどのような貢献が出来たのか問い直す必要があるのではないかと考えます。