信仰という名の解凍コード

 まずはじめに書いておくべきことは、宗教と信仰は異なるものであるという点です。それと同様に哲学と信仰もまた違います。私のうちにおいては、宗教と信仰、哲学と信仰は一致していますし、調和もしています。しかしながら、日本においては度々これらに対して誤った混同と峻別がおこなわれているため、あえて違うという前提に立ちお話したいと思います。

 宗教、信仰、哲学を異なるものとする前提とは何であるか。そもそもこれら、つまり宗教、信仰、哲学とは何であるか。

 宗教と信仰の差異が強調されこれらが異なったものとして峻別されるのはいったいどのような場合であろうか。
このような問いがなされ、その違いが強調される場面は、主に社会性が問題とされる場合である。社会性、つまり信仰共同体に関わる諸問題を扱う際に取り上げられるのが、宗教と信仰の違いである。
 次いで、哲学と信仰が問題とされる場面とはどのような場合でしょうか。
 これもまた古くから問われている問題です。この問いは、哲学的、神学的な学問の場において激しく議論される主要な問題でしたが、この問いを浮世離れした一部の人たちの患いであるとするのは間違いでしょう。こと倫理的な問題、つまり選択し行動する際に問われる重要な問題の根柢を成しているのがいわゆる形而上の問いといわれているものです。この問いが実践において直接的に問われるのが、医療従事者、教役者、官吏など社会的公務に就く人々であることは異論のない事であると思います。
 これらの問いを責任ある人々に委ねるのも一つのあり方であると思います。しかしながら、これらの判断を委ねることにどれだけの人が合意し、実行に移せるでしょうか。
 社会的公務を委ねられている人々はエリートと呼ばれるのが慣行です。エリートとは元々、ラテン語においては神に選ばれしもの、と意味を持つものでした。彼等は当然ながらその公的な性格ゆえに上記の哲学上のしかも信仰の関連する問いに常々答える必要に直面しています。
 彼等は当然なこととして、エリートを否定する人たちであればそれは消極的にですが自らもこの問題に答える必要に駆られます。
今回は二つの問いを立てたことになります。宗教と信仰、哲学と信仰の二つです。しかしながら、この二つの問いは互いに連関していますし、根源的には同じものです。(*書きかけ。後で追記)