過去ログから2006.6.3

 

公教育とは年金と同様に老後のための現役世代の投資、保険である。保険の基本であるリスクの分散を公教育にも適応すべきではないか。現在の公教育では投資に見合った利益の回収が見込めず、個別に教育に対して追加投資がおこなわれている。個人(家庭)が個別に投資をおこなうことはとがめられるものではないが、現状では公教育に対する投資が放棄され無駄となってしまっている。本来、公教育は社会の成員、社会全体が利益を享受しているものであり、リスクは社会全体で負うべきであるし、公衆衛生、安全保障・治安維持同様、その負担を徴税などにより社会全体でおこなうことはなんら資本主義、民主主義社会の本旨から逸脱するものではない。この点については、ミル『自由論(五章)』、アダムスミス『国富論(分冊4)』で公教育が政府の業務としてとり行われる必要を指摘している箇所からもわかる。
 新(現)教育基本法の方針として家庭教育が主張されているが、各家庭の教育に対しておこなわれる追加の出費含め個人、家庭に公的な性格を強く持つ教育の負担を課すことは民主主義の本義に反する。
 同様に、教育のもつ責任は、親-家庭、教師-学校、むろん子ども-生徒に課されるものではない。その公的な性格ゆえに社会がその責任を負う必要がある。 
 公教育に対しておこなわれる投資は膨大なものであるし、その利益もまた膨大なものである。そして果たすべき義務と責任もまた崇高なものであり、これをただ家庭、親、子どもに対して課すことがいかに不合理であるかは容易に理解できる。と、同時に社会はこれらの教育が公共性、公の福祉に反しないことを主張しうる。
 公教育は子ども個人の利益同様に社会全体の利益が目指されるべきものである。なぜなら、社会全体の利益とはその構成員の一人でもある子どもも含まれるからである。公教育の目的は、いかに個人の幸福を社会の幸福にするか、社会の幸福を個人の幸福にするかそれを考えるための土台を築くことである。 
 教育の公共性を主張する者が非難すべき点は二点ある。教育を差異化のために投資する利己主義と誤った功利主義。それに対する反動として、家庭、また学校に対して公教育の役割を求め社会の成員全体の責務の放棄、である。

もともとはid:konatyanで書いていたときの過去ログを要約というか、論旨を明確にするために再構成しました。