かわいそう騒動にみる人文系学部の問題点

 
 福耳先生のエントリを起点として数日の間もめていた「かわいそう」な騒動で考えたことを少しエントリにする。まず、福耳先生のブログに対してされたTBはすべてに目を通したのだけど、TBなしの言及も当然あるのだろうけど認識の範囲外なのでこれはどうにもならない。ここで問題にしたいのは、福耳先生のエントリに否定的見解を寄せた二種類の人たち。

  • 女の子を馬鹿にするな!派
  • 資本主義の手先が!派

二種類に振り分けてみたけど、この他にとりあえずお祭り騒ぎだから乗っかってみたという人たちもいるけど、これは除外しとく。

で、一つ目から考察するのだけど、これは福耳先生の変更前のエントリというか正確には福耳先生が変更した内容を主に問題にしていた人たち。福耳先生に一種のミソジニー的なものがあったのではないかと批判してる。これはどちらかと言うと福耳先生個人に向けられている面が強いので私は中心的には考察しません。
文学部というよりも人文学系の学科は女子大であるに関わらず、一種の女性的傾向を持っているのではないでしょうか?
これは、フェミニズムが学問として成り立った過程を考慮に入れれば理解できるかと思います。そしてこれらの言説が主にどのような人たちによって受容され、教授されているのかを考えてみるとよいと思います。とくに、40代から50代の教員要するに、学生運動ニューアカデミズムを教養として学生時代に享受した人文系世代というのは殊更女性的なものに対して高評価を示し、また男性的な価値を殊更批判します。

  • 教室においての前提

ここで重要なのは、教授する側が何を男性的/女性的と割り振るか、また受容者である学生がそれをどのように自らの思考および態度に取り込むかです。ブルデューの高等教育に関しての言説をわざわざここでは引きませんが、学生が常に教授から評価されること、つまり単位の授受をもって学生と教員の契約が第一に取り結ばれていることを念頭に置けばある程度理解が出来るはずです。
実際に人文系の学部で学ぶ一人からすると、一種の主義・信条・心情・思想の押し付けは日々感じるところです。無論、意見を公に表わすものは誰でも、何処でも意見を他者に押し付ける存在です。このこと自体に問題は潜んでいません。他者になんらの押し付けをすることなく意見の表明が可能なものなど誰一人としていません。

問題は、成績の評価を教員がおこなう構造にあります。このこと自体を取上げ非難するのは単なる低俗な学校制度の非難にすぎず、なんら新しいもの、また得るべきものもありません。ここで、問題にしたいのは判断の規準、またそれを明示しているかです。
私が問題にしたいのは、各学部、学科、ないしは学問上の流派なる瑣末なものから、教員個人の学問上の方法論に到るまでの、学問においての前提です。

ここで問題になっているのは前提と方法です。福耳先生の不満の原因を端的に表わすと、教授する側が保持している前提、方法を学生に伝達しようとしたが、それが全くできていない学生が多数いたため、とすることができます。この一人の教員の愚痴がなぜにあれほどの拒否感を生んだのかが考えられるべきです。

ここで明確にされなければならないことが一点あります。大学の教員は何らかの知識、および前提と方法、それらのものから導き出される結論を体系だった形で学生に教授、つまり伝えることが職業です。これらの授受がおこなわれなかった学生に対して不可の評価を下す権限が教員には与えられています。シラバスとはそのことを示す学生と教員の契約書です。私も色々と文句を過去述べましたし、今でも不満を感じる点がありますが、この前提には同意いたします。このことは非常に重要です。何であれ、大学との契約、これは入学時に大量に届いた書類に事細かに書いてあることですが、に同意した以上、学生にはそれを執行する義務が生じます。私も正直こんな不当な契約は理にかなっていないとは感じますが、仕方がありません。

まず、一つ問題を切り離しました。まずもって、教員が講義で教授しようとした内容をきちんと把握できなかった学生は批判されて然りです。極端な話をしますと、私は教員が書いた論文を理解でき、きちんと前提と方法が理解できる学生に単位を与えるのが最も公平でありかつ大学の本来の意義、つまり学術研究にかなっていると考えます。ですが、大学の学部生が自らの所属する学部、学科の教員の論文を読み、それらを理解するのはほぼ無理だと考えるべきでしょう。まれに例外がありますが、それは例外ゆえに考慮されないものです。

ここでもう一度何を私が述べたいか述べることとします。つまり、教授を受ける学生の思想・信条ましてや心情と教授される事柄を理解することとの間には何ら関係がないことです。つまり、講義で行われることは講義の内容を再現することのみに尽くされます。しいて言えば、自らが教壇に立ち、同じ知識・前提・方法を再現し、体系だてることができれば、理解してるといえるでしょう。ここで、個人的な見解は不要です。
これは人文系の科目でナイーブにもおこなわれ、また特に批判もされていない悪しき傾向であると昨年より思ってきましたが、講義、またレポートにしろリアクションペーパにおいても教員が強制的に(ここでは成績評価のため、つまり単位の授受を目的に教員が)発言、発表、書いたものの提出を求めることです。授業の評価においては個人的な見解、それは心情、信条、思想の提示を求めるのは特に必要がない場合避けるべきですし、特に注意しておこなわれるべきことだということです。残念ながらこのような野蛮な行為が、教養科目や人文系の科目では度々おこなわれています。
私は上記で述べたように、授業後のリアクションペーパは個人がどのようにその講義で考えたか、どのように思ったかではなく、講義の内容の要約、キーとなる概念を把握できたか、また理解の及ばなかった点は、これとこれであると理知的な面に限られておこなわれるべきだと考えます。と、同時に教員はこの旨をきちんと学生に述べとく必要があります。つまり、君が何者でも、それがひどく世間一般では嫌われるような形質であろうと、それは関係なく理性によって、知識・前提・方法が理解できるか問うだけであると、わたし(教員)と君達(学生)の共通理念と前提は理性においてのみであると。
同様に、幾らか時間をかけておこなわれるレポートは、必要な問に対してある方法を使い結論を導く訓練ないしは、知識を集める訓練として、リサーチペーパのためにおこなわれるべきです。これはまともなレポート・論文の書き方を記した書籍には皆書いてあることですが、ここでは徹底的に心情は排除されます。そして、ある信条を述べるためには種々の知識と前提が明確に示されること、ある方法に導かれることが必要とされます。

  • 原初的な感情と正義の直結について

ここからが本題です。ここで考察するのは一番初めに二種類に割り振った形質に関して、その形質を持つ人文系の教員、学生に関してです。単刀直入に言ってしまえば、ブルデューの『再生産論』に要約されるであろう。ここからブルデューの議論に沿いながらつまり、書籍を引用しながら論を進めていくのが、先ほど述べた大学での方法論、文体に従うなら適当だと思うが、面倒なのでここではそうしない。(*しかしながら、自らが大きく影響された書籍を明示しないのも不適当だと思うのでここに記しておく。教師と学生のコミュニケーション (Bourdieu library))

  • 感情の発露を無垢なものとし、理性の働きを穢れたものとみなす傾向に関しての考察

今回の騒動で見られた一つの傾向として、感情の発露を無垢なものものとし、と同時に理性を感情の抑圧者とする立場です。類型化したため個別事例を取り扱うわけにはここではいけませんが、この傾向は、その態度を採用する人、またこの態度を批判する人双方にみられる傾向であると言って差し障りないと思います。




*まだ途中。