サブカルチャーとしてのカトリシズム/インカルチュレーションの対象としてのサブカルチャー

id:antonianさんが、聖☆おにいさん(1) (モーニング KC)を紹介されてる。私も先輩の家で読みました。ゆるさ加減がとってもつぼでした。若い人の受けはとってもよいと思う。私の周りはみんな大爆笑でした、私含めて。
昨日、今日(土日)と私の大学の先生方は「キリスト教と日本宗教」(http://www.sophia.ac.jp/J/news.nsf/Content/kiribun_080607-08)と題して講演会を開いてますが、インカルチュレーションの対象としてサブカルチャーが議題に上る日はいつになったら訪れるんだろう。でも神学者が顔を突き合わせてアニメの話をしている姿を想像するのはちょっといやかも。
 エントリのタイトルにも書いたのだけど、カトリシズム(この語あんま使われないけれど)は間違いなく日本では、サブカルチャー。何もマリア様の萌フィギュアが置いてあるとかではなくて、メインカルチャーの対としてのサブカルチャの意味で。どうあがいても、1%ですので、オタクより肩身が狭いわけです、この島国では。
 この辺の問題に答えるために日夜、禅だなんだと、異文化交流を試みるのですが、少し若いヒト的に疑問なのはそもそも日本人ってみんな熱心に座禅組んだり、お経唱えたりしてるのか?それこそ神社に御百参りしたり、わら人形に五寸釘打ち付けたり・・・最後はなんか違うけど。
 これはずっと疑問だったのだけど、問題はむしろ超越的なものに対して目が向いていないところにあるんじゃないの。
 超越的なものへの関心というとすぐにうちのギョウカイの人は霊性と言いはじめる。まて、その前に教理問答(カテキズム)があるでしょう。霊性霊性いうのが悪いとは言わないけど、それじゃあ、その辺のスピリチュアルな人と同じ扱いを受けてしまうおそれが高いと思う。
 別に現代の日本人だって、スピリチュアルだ自己啓発だ、ライフハックだなんだと、善や幸福に対しての関心が高いのを見る限り、超越的なものへの入り口には立っていると思う。でも、近代人相手に愛だなんだっていきなり語ればドン引きされる。疑問があるのが当然で、それに丁寧に答えるのがカテキズムでしょ。
 わたし自身経験があるのだけど、信じてないけどなんか関心がある状態で聖書や、教え(教義)にかんして素朴に思ったことを問いにするとそれが一級の神学の問いになる。これはほんとに不思議。
神っているのか?神ってなんなのか?この問はデカルトであれ、パスカルであれ、トマスであれ、まあ他にもたくさんいるけどこれだけの哲学者、神学者が全く同じ問で思索してんだからこれはなかなか面白い。そして、皆が皆違った方法で色んなことを書いてるけど、みんな結論は同じで、「神はおり、私は信じる」と二つのフレーズに極端な話要約することができる。これは、クレド、信条と呼ばれているものと同じ。信じている人は別にこムズな神学の議論など不要で結論は皆心得ている。
 デカルト先生も言っていますが、学問においても理性の用い方は諸々異なるのであって、わたしが重要だと考えるのはどのような過程を辿ろうとも、前提を共有していれば対話は成り立つし、結論まで共有しているなら行動を共にできる。
 私は一点譲れないことがあって、信仰、つまり結論に導くのは人の力によるものではないということ。無論直接的には何らかのできごと、人物が間に入るかもしれないけどそれは媒介者にすぎない。この点、説教をする神父だって、神学者だって同じ。その人が神と出会わなければ信じることなんてできない。
 信仰を得てからずっと疑問に思ってきたのは、というかむしろ不満に思ってきたのは、どうして今の教会は熱心に外の人に向けて知的なものを書かないのだろうかと、これは要するにギョウカイの学者の皆様に不満タラタラだってこと。アカデミックな論文を書くか、さもなくばギョウカイ向けの文章ばっかりでなんか面白くない。無論大学の一般教養の講義やそれこそ上記の講演会のようなもので頑張ってるのは理解してるのだけど、それにしたってもう少し一般向けの良書を書いて欲しいと切に願う。それこそ、新書でいいからなんか書いて欲しい。
というか、色々と困る。神学とか、カトリックに関してなんか入門書のようなものを紹介してくれといわれたり、紹介しようとしたとき手ごろな本が少なすぎる。
奨めるときは以下の書籍を紹介してるけど。

カトリシスムとは何か―キリスト教の歴史をとおして (文庫クセジュ)

カトリシスムとは何か―キリスト教の歴史をとおして (文庫クセジュ)

カトリック神学入門 (文庫クセジュ)

カトリック神学入門 (文庫クセジュ)

とりあえず、説教臭くなくて、抹香の香りもそんなしないで、知的な水準をある程度維持していて、分量多くなくて、値段が手軽で、手に入りやすい事を条件にしたら、上の二冊ぐらいしか残んない。正直サンパウロなんかに平にしてあるような本を薦めることは私にはできない。

あと、なんか信仰を知的に理解することに対しての嫌悪のようなものをたまに感じるんだけど、その嫌悪とか知的に疑問を持って問うことに対して人間の独善を見て取るような心配は杞憂であると思う。そんな、馬鹿な話がまかり通るなら、私が先ほど挙げたお三方はみんな焚書坑儒だし。

あと、さらに興味を持った人には岩下壮一の「公教要理解説」を奨めたいけど手に入りにくい。私が奨めてもらって読んでよかったのがペトロ・メネシェギ神父の書いたもの。でも、ともかく一般的な教養としてキリスト教に関して(これはプロテスタントカトリック、正教関わらず)持って欲しいと思う。

こう言うと、じゃあ、仏教についても知らないと、イスラムについても、儒教についてもetcと無限に扱うべき情報が増えてしまう。これは確かにそうなのだけど、私はむしろだからこそ、自分の信じるものについてよく心得て、血肉にしておいて、その上で相手の信じるものに理解を示し、対話する必要がでてくるのだと思う。なので正直な話、仏典も読まずに、それはつまりアカデミックな方法論を使用するなら当然ながら、仏教のドグマとサンスクリット語ぐらいやるつもりでないとインカルチュレーションなんてできないと思うのだけど。これは儒教についても同じ、五経四書全部読んでその注釈書も代表的なものぐらい読んでからやらないと。それをせずに勝手にポットその辺のフレーズをつまんできて、キリスト教のドグマではこんな風に理解できますと言ったところで、私には何の価値があるのかよく理解できない。学問的にもそうだし、信仰の上でも。

自分の知りうる範囲には限界があり、故に祈りと神の恩寵が必要不可欠だと理解するのが神学をやる際の心得その一であって(これはラテン語だろうが古典語だろうとより最優先)自らの祈らぬもの、これは裏を返せば他の人が祈っているものを祈りもせずにつまんでくるって神学者が一番やってはダメなことだと思うのだけど。

じゃあ、他の信仰を持つ人と協力がまったくできないのかと言えばそんなことはないと思う。むしろ、今社会が抱えている問題にそれぞれの信仰とそれぞれの公理を持って誠実に向き合ってお互いにその成果をわかち、問題を色んな視座からみることでなるだけはっきりさせるべく努めることなんじゃないのかな。

一言で言うと、岩下壮一カムバック!なだけです。器の小さな神学者ばかりでうんざりです。