主人と犬

 疑問を抱くというのはとても大事だと述べたけど、これは神学にとっても重要であるし、無論哲学や諸々の学問にとっても問うこと、問を立てることは一番大事にされること。極端な言い方であるけど、疑問のない人間に学問はできないし、不要ですらある。
 問には二種類あって、喩えるならば、好きな人がどんな趣味思ってるのか知りたいといったような、正の方向の問、これはともかく対象に肉薄してそれをできうる限り把握して逃がしたくないような熱烈な情念を伴うもの、もう一つは、負の方向の問、これは受け入れがたいことを受け入れなければならないときに生じるもの、喩えるならば、好きな人にふられてしまったとき、それはなぜだか問うようなもの、これはやるせなさとも悲しさともつかない魂の叫びと共に対象をなるだけ遠ざけ、それを見えなくしたいという情念を伴うもの。
 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』『政治学』つまり彼の実践哲学において、至高善を問題としたけれども、善について問うことは、善でないものについて問うことと対になっている。
 これは神に対して問うときにも同じである。救いを求めるとき、それはつまり自らが救われていないことを表わしてもいる。死への恐怖を呪うとき、それは生への賛美となる。
 私は最近自分の思考法のくせっ毛が気になり始めた。なるだけ対象をand、と、でつないで対にしたがる傾向がある。AとBとで話すのだけど、A、Bそれぞれについて話すのではなくて、それらの共通点、相違点を通して、Cについて話そうとする。
 哲学者は生まれたときから獣であって、懐疑という牙をむき出しにして、そして同じ獣である哲学者に食い殺される。哲学史は、進化の樹形図にはめ込まれた化石と同じ。骨であり石であって、とどめているのは無残に崩れた骨の跡、しかし石になったそのグロテスクな痕跡は語ることをやめない。正直な話、呪われた仕事である。仕事というにはあまりにも穢れている。こんなもの進んで職業にする人間などいない。ならざる得ない人間がなるものである。
 神学者も哲学を使うが、それは主人が猟犬を使うのに似ている。犬は主人のあとについて歩き、獲物を見つけ、主人に居場所を示す。主人が注意せねばならないのは、犬は従順であるが故に犬なのであって、従順でない犬は狼であり獣である。良き犬は良き主人を必要とする。主人もまた良き犬を求める。狩らねばならない真理は厄介な対象である。まず第一に何処にいるものやら見つけるのすら困難である。もし、その姿を捉えてもそれを捕らえることは容易ではない。
 ここで、間違ってならないのは、犬は自然に備わった性質、つまり自然理性によって獲物を捕らえることができる。しかし、彼らは獲物を捕らえるだけではなく、しばしば同種の獣と獲物をめぐって争わねばならないのである。度々論争が起こる。それは時として同じ群れで、もしかしたら別の群れで、群れ同士で、それぞれ個別に。
 主人はその点争う必要はないし、日々の糧にこと欠くこともない。もしその日の猟が不毛であっても家に帰れば他の仲間が食べ切れない量の成果を持って帰りすでに食事の用意をしてくれているからだ。
 主人のなすことは一点のみである。みずから子飼いの犬をよく訓練すること、そして猟においてもよく協力すること。そして不幸にして忘れがちなことであるが、自らの犬と仲間の犬を比べぬこと。もし、成果がなかなかあがらぬからと自らの犬を見捨てるなどということはあってはならない。また、ここ最近調子よく成果をあげていても仲間とその犬を非難するようなことがあってはならない。いつ自分が獲物なしの惨めさを味わうことになるかはわからないからだ。
 そして、よい猟場あっても誰もがそこに行かぬこと。あっというまに獲物はどこかに行ってしまうだろう。なるだけ、色々な場所に出向き、種類と形質の異なる犬をよく飼いならすことが必要。
 あと最後に大事なことは、犬は賢いので主人をよく観察し、それに付き従うべきか判断していることを主人は忘れぬこと。

今必要なのは、喰って喰われて、そして適者生存の過程で細分化し、多様な形質をみせる獣を手なずけて猟犬にする主人の技量だということ。学問の統合が唱えられて久しいけれど、肝心の主人の魅力がいまいちなので、もう少し獣の苦労は続くと思う。