二人のアウグスティヌス

川本氏への応答を優先すべきなのですが、むらっけと集中力のなさと言う悪い癖のため少し寄り道します。というか、最近寝つきが悪いのか突然目が覚めてしまう。あまりよろしくない。また、起きてコーヒーを飲んで本を読んでしまうので必然的に寝れなくなる。悪い癖です。

 今読んでいたのがアウグスティヌスの愛の概念で、まだすべて読んだわけではないのですが、少し考えてる点についてメモをしておきます。
まず、アーレントアウグスティヌスに関しての詳しい説明などわたしごときができるものでもないので省きます。以前に少し引用しましたが、アーレントについては『人間の条件』を以前読みました。(いちよう読了した)今回読んでいるのはアーレントの博士論文が基になっているもので、私の卒業論文にも非常に参考になる、いや参考にするつもりで読んでいます。アウグスティヌスは『告白』『神の国』『ヨハネ福音書講解』『三位一体論』・・・・どれもこれも積み本状態です。今日はアレント以外にもう一人の人物を取上げるのですが、岩下壮一です。最近彼の論文を大正期の論文集「カトリック」からコピーしてきては目を通しているのですが、今回言及するのは『中世哲学思想史研究』に収められている(他の全集にも当然収録されていますが、私が読んでいるのは、編者:吉満義彦 岩波書店 昭和17年一版 44年五版)「聖アウグスティヌス「神国論」」です。
 大学入学前、受験浪人のころで当時読んだのが、Free Will: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)で、この書籍で取上げられていたのは、聖トマス(Thomas Aquinas)、ドン・スコトゥス(Duns Scotus)他には、カント、ヒューム、カルヴァンとが紹介されていました。当時より政治哲学や法哲学に興味があり特に自由意志の問題に耽溺していたのですが、信仰を得る以前の傾向として、ジョン・ロックに代表されるような思想家を好むばかりで特に今回とりあげるアウグスティヌスやトマスに関心は向いていませんでした。
 何故、神学部に入学したかにも通じる話なのですが、特に西洋思想、哲学を理解するのを望む場合神学の視座が不可避である点はかなり早い時点で気づいてはいました。無論、法科に入学して、サブで神父さまがたから個別に以前のように聖書や信仰に関して教えてもらい理解を深める手段も残されてはいました。ですが、私は何事につけても横着であるので、自分の興味のある法科の勉強は棚上げし、学士4年は哲学と神学を学ぶのがよりよいであろうと思い入学を決めました。色々とこれについては思い違いや、落胆がありあれなのですが、神学に関して(断じて神学‘部’に関してではない)は満足していますし実りあるものであると考えています。
 今回問題にしたいのは、アウグスティヌスの神理解そのものではなく、ごく限られた幾つかの問題に関してわたしが考えたことのメモに過ぎないことを先に断っておきます。
 まず、アーレントは博士論文「アウグスティヌスの愛の概念」を大きく三つの部分に分けて論じています。ご存知の通り、アレントが問題としていたのは主として政治哲学の幾つかの問題についてです、この論文中でもその点に違いはなく、最後の章において「共同体」に関して論及しています。私が幾らか疑問に感じるのはアーレントの数々の論説の中でもこの論文に関しての言及がさほど熱心になされていないことです。先ほどあげた『人間の条件』や『革命について』などに触れている人が多いにも関わらず。これは、やはり日本においてはアーレントが言及するアウグスティヌスがあまりなじみのある人物でないことが影響しているのかもしれません。

  • イズムの誤り

 私が特に好いている古典が二人います。哲学、思想家ではジョン・ロック、文学者では夏目漱石です。この二人は何度となく機会のあるたびに読み直します。毎月大量に本を買い、それを積み(全く褒められたことではありませんが)上げる生活をしていますが、その中でも幾たびも読むのはこの二人の書いたものです。そしてこの二人の書いたものは私が初めて読みきった古典でもあるので、これはおそらく将来も続くのだと思います。
 中学生の夏に背伸びに、背伸びをして購入した三冊、ジョン・ロック『市民政府論』夏目漱石漱石文明論集』マルクス資本論』結局、最後の一冊は全く読むことができませんでした。信仰を得た今にしてみれば、どうも気に喰わない、合わない、直感で何かまずいものを感じたという当時の感覚を幾らか正当化してみることも可能でしょうが、当時のわたしにただ単にそれらを理解するだけの力量がなかっただけであったのだと思います。
 私がここで問題にしたいのは、度々問題とされるエゴ・イズムという使い古された定型句に関してです。心ある人たちは、無論私もそのうちの一人であると思うし、そうありたいと思う一人ですから、個人主義とその自由の放縦さに眉をひそめ、改めるべきだと考えるのですが、この便利な、エゴ・イズム、自己中心主義なる言葉に問題が潜んでいると考えます。ただこの言葉を使い批判がなされるだけで終わってしまっていることに対して疑問を感じるのです。
 ここで、問題なのはこの批判がなされる際にどの程度の行為や考えが放縦つまり自由の逸脱と捉えられ、また立ち戻るべき本来の自由や自己が明示されないのはなぜなのでしょうか?ただ、現状を憂いそれを各人の問題とすることは単なる感傷であって、これもまた自己中心主義なのではないでしょうか?
 自由についての問題を考える時私は次の聖書の箇所をいつも思い出します。ガラテヤの信徒への手紙五章(新共同訳)

 5.13-15 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉の罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

 
引用した文を一文ずつ見ていくこととします。まず、一文目で気になるのが、「召し出された」というフレーズです。これは、ラテン語(ウガルタ聖書)では、vocatiestisとされています。これはvocoが受動態となったもので、英語で言うcallです。召し出すと言う語はいささかわかりにくいと思いますので、ここでは「呼びかけられた」としておきます。ここで重要なのは、「自由を得るため」という部分です。自由を得るという能動的な動作に呼びかけられている(当然ながら受動です)点に関してです。

*書きかけ*

 使徒ヨハネ 山下 CanDy(以前に自己紹介しましたが、今日のエントリーから毎回シグニチャーすることとします)