よりよく伝えるために書く方法

 
 私は最近ますます強く感じるのですが、よく書くためにはどのようにすればよいのか?この問いばかりが頭の中を占めています。私は何か知識を欲したり、よりよくある本を理解することをあまり望みません。今理解していることをどのように表現すればよいか、そしてそれがどうすればよく伝わるか、そればかりを考えています。
 私が伝えたいことはそもそも何なのか?それを誰に伝えるのか?どうやって伝えるのか?この3点が問題です。私が伝えることは既に明確でありしっかりと私のうちに把握されています。問題は誰に、そしてどのように伝えるかが問題なのです。私が思考し、かつ指向するのは私が信じるものです。私が伝える必要があると感じるのもこの信じるものに関してです。人が考えることができるのは一度に一つだけです。私が考える対象もただ一つです。問題はどのように表現するかなのです。 
 私が身に付けたいのは、よく書くため、そしてよく考えるための「方法」です。
 私のうちに把握されたものをそれが何であれ、誰かに伝える価値のあるものだと判断されたのであればそれが何らかの方法で表現されなければなりません。表現されなければ伝わることも理解されることもありません。
 私が初めてものを書くようになったのは何時ごろであろうかと考えました。特に私が何かに問いを立て、ある方法に基づき記述、思考し、結論を導いたか、つまり理性と呼ばれるものを自ら使役したのが何時なのかと考えてみました。
 私が初めて自らの理性を自らの手で使役したのは小学5年生の夏でした。その当時の私は理性について明確な意識など当然持ってはいません、ただ今の私が過去の自分を観察した際にそこに理性の働きを見てとれるというだけの話です。夏の自由研究の課題に取り組んだことが私の思弁、そして仮に私が研究を生涯の職とするのであればその始まりもまた私の夏の研究となります。
 ここで問題なのはその研究の内容ではありません。ここで問題とするのは、課題設定、問い、方法、考察、結論の導出に到るまで自らおこなったということです。私は思弁、思索を今現在もおこなっていると考えますが、それは小学生の私と何ら変化のないものでもあると考えます。私は自らの思弁、思考を大切にしますし、誇りに思います、と同時に教育というものに懐疑と制限を加えることを強く主張します。
 私の知的な経験は自然観察と共に始まったことが非常に重要です。私にとって、そしてこれは今でもそうですが理性はそれが自然物であれ、社会であれ対象は自らの外部にあるものであり、そして理性は比較、類推という基本的な方法に基づいて使われるということです。
 中高において私は多くのことを教わりました。具体的に示すときりがないので、要点をまとめると次のようになるでしょう。まず一つに、私は科学的な思考というのがどのようなものであるか教わりました。それはロジャーベーコン以来洗練され受けつがれたものです。私の知識は多くの点で中等教育課程のものですが、多くの人が科学者に感じるような遠慮やその裏返しである蔑視などをしません。なによりも私の周りには友人、教員含め科学を好む人がたくさんいました。
 次に私は多くの人と協力し、つまり交渉し、意見をまとめ、時に上に立ち、時に従い、共通の目的を実行することを学びました。これは非常に重要なことです。私が嬉しく思い、そしてこのよい点が以後も残ることを望みますが、私の先生方は皆生徒をきちんとものを自分で考え責任を持って行動するものと理解し、その手助けが教育であり、指導であると心得ていました。私、これは私だけではありませんが生徒は多くの点で自由でした。何より重要なのはきちんと考えなければ行動できないということです。共同体の中で自らの役割を果すことがどのようなものであるか学べたことは非常に有意義でした。
 最後に私は神とイエス・キリストそして聖書について学びました。私は中高において倫理や宗教に教わったことなどありません。私が教わったことは信仰です。
*まだ書き途中