混同と困惑と異端について

 度々利用するジュンク堂の新宿店では、人文書の棚の向かいにスピリチュアル関係の書籍が並んでいる。私はそれを見るたびにシュールだと思う。エイレナイオスの『異端反駁』の真向かいにスピリチュアルの書籍があるのだ。エイレナイオスは千年以上たっても自分の仕事が残っていることを嘆くのかそれとも喜んで新たに筆をとろうとするのか、はたしてどちらであろうか。
 現代社会、それは度々数々の批判にさらされるものであるが、スピリチュアルも一種の批判であり、また一種の救済であると言ってかまわないものであろう。問題は偽預言者には注意しなければならないという昔からの警告である。書店においては先にあげたスピリチュアルと同様にもう一つの救済策が多くの支持を受けている。それが一種の成功の法則や哲学を論じるものだ。
 これらの現象は現代に特徴的なものである。現象の形態は全くもって現代的である。であるが、現象自体はなんら新しいものではない。そのことを聖書を読むものは知っている。警告は随所に見られる。それは旧約においても、福音書においても、そしてパウロの書簡においてより明瞭に記されていることである。

  • 反駁の必要性について

まず第一に反駁の必要性を感じ、また実行に移さねばならないのは司牧者です。散ってしまった羊を探し、羊を守り、導くことが羊飼いの果さねばならない役割だからです。この点に関して私は十分とは言えないが必要な働きはなされていると考えます。カルトなどの誤った宗教に対しての防護とそれからの救済に関して熱心な取り組みがなされていることを私は知っています。この行いがより広くまた熱心におこなわれる必要があることは疑う余地のないことです。ですが、このほかの問題に関しては十分な働きがなされていないと考えます。今回私が取上げたいのは宗教ではなく、信仰に関してです。
 先ほど書店の話をしましたが、誤った教説を説く書籍が多くの読者を得ていることに私は危機感を覚えます。カルトは誤った教説により人を不当に束ねますが、この教説は不当に人を散らします。これはよく知る人には強調する必要のないことだとは思いますが、我々は信仰により自由とされますが、その信仰ゆえに僕となるものです。神に向き合うと同様、隣人にも向き合うものです。
 この誤った教説の根は深く遠く初代の教会においても問題となった事柄です。そして、この問題が結実した19世紀以来、つまり信仰が完全に世俗化し、また個人化してしまっていらい世界に広がり続けています。この新たなグノーシス主義に対しては前教皇ヨハネパウロ二世も注意を促していますし、教皇庁からは『ニューエイジについてのキリスト教的考察』によって明確な懸念と司牧者、教役者に対しての勧告がなされています。私は教役者でもなければ、司牧者でもありません。ここで私が試みるのは自らの信仰の糧となるべくおこなう個人的省察でありますし、そのいくらかの成果が、それは無論乏しいものでしょうが、他の人に益するものであるとも考えます。

  • 人文学、神学からのアプローチの必要性に関して

現代の社会現象に関して時流に乗った、つまり機動的でフットワークの軽い活動をおこなっているのは主に社会科学、特に社会学を学ぶ人たちのように思われます。ないしは現代思想を手足のように駆使し、サブカルチャーを論ずる人たちをそれに加えることができるかと思います。それに対して私がこれから採用しようとするのは人文学であり、神学によるものの見方となるでしょう。無論、私はいまだ見習いである以上初歩的な知識のなさによる失敗や類推、推理の不備から生じる誤謬に陥りかねません。それでも私がこの省察をおこなう必要を感じるのは自ら必要と感じると共に他の人からも必要とされていると感じるからです。
 人文学からのアプローチと申しましたが、端的に言うと哲学によるアプローチです。この場合二種類の哲学を用いる必要があります。一つは、認識論の哲学、これは何が誤りであるか、また現象自体を整理、分析するために必要なものです。もう一つはより高次の問題を処理する際に使用する形而上学です。これに関して私の力量で多くを述べることは望めないものです。
 また、これに加えて神学からのアプローチが必要とされます。なぜなら今回取り扱う問題は何よりも魂の救済に関わる問題だからです。これには神の特別の恩寵と啓示に基づく学問が必ず必要になります。と、同時にこの問題には古典世界の時代よりキリスト教が密接に連関している歴史的な事柄でもあるからです。
 なおここで必要とされる領域を改めて整理すると次のようになります。教義学、教会史、新約聖書学、形而上学、認識論哲学など。

*まだ書いてる途中