英雄がいない時代は不幸だとは誰しもが言うが、わたしは英雄を求める時代こそ不幸であると思うと、誰かが言った

 既に気分は夏休みです。夏休みと言ってもどうしようかという話なのですが、いろいろとやることがあって忙しいのに変わりはない。実家の広島に帰るか否かなのですが、正直帰ろうかどうか迷っている。中高とお世話になった恩師が広島を離れるそうなので彼に会えないのなら広島に帰るのもつまらないのでやめようかと思っている。それにしてもとても残念なことである、私の後輩達は恩師のようなすばらしい先生に教わることがもうできないのかと思うと。
 私は基本的には教員という職業をとても馬鹿にしている。なぜ?と聞かれても彼らが愚かだからだ、としか答えようがない。
 私が卒業する前後三年の間に多くの先生が定年や健康の不安から退職なさってしまいとてもさびしく思っていたのですが、今はむしろその穴をふさげているのであろうか?後輩達がきちんと学べる環境にいるのだろうか?という心配が頭をもたげている。
 私のある恩師は、この場合恩師はたくさんいるので個別にどうのこうのいちいち述べはしないけれど、授業の際に次のように言っていました。教育実習生にしろ、〜、〜(30代の若い教員)にしろ、だめな点がたくさんあるだろうけど、良い教員を育てるのも良い生徒の役目の一つである。遠慮なく彼らをいじめなさいと(笑)。これは全くもってその通りであると思う。当時の私もそう思ったし、今思い返してもそのように思う。
 私は遠慮なしに言うのですが、私のすごした学校で教鞭をとれといわれたなら非常に困惑すると思います。何しろ非常に小生意気な生徒ばかりの学校でしたから。むしろ今いる大学の学生のほうが基本的には素直で純朴、悪く言えば従順なように思われます。私は教職免状を得ようと奮闘している学友やそれらの教科を指導する教員方とも交友がありますが、失礼を承知で申すのですが、あなたがたがの方法は私の学校においては残念ながら使えないどころか侮蔑と失笑の対象でしかありません。
 まず第一にあきれるのが教科教育法なる代物です。私はあきれ果て返す言葉がありません。何をやっているのだか?公立の学校に就職するならそのような愚鈍で愚かで怠惰な技術の一つも必要であると思いますが、私立の学校に、ここで私が述べるのはミッションスクールに、職を得るつもりならそのようなくだらない方法論は無用でしかありません。
 まず、そもそも考えて頂きたいのですが、何らか教育の内容を完全に規律可能であるというような認識がそもそも誤っています。私が中高で受けた授業は常に逸脱を含むものでした。教科書を使わなかったり、使うにしてもそれは話の出立点か、小さな種にすぎず多くの場合教員の個性が教壇では大いに発揮されていました。ですが、進むべき内容つまり知識の面でも無論授業は進みます。しかしながら、それはあくまで従属的、付属的なものです。教科書や知識に関しては最悪でも読めばいくらかでもわかるものという前提が当然ながらそこにはあるわけですが。
 なお、私がここで述べるのは非常に特殊な事例に過ぎないでしょう。正直な話、私の言う事柄が通用すると確実に言いうる学校を私は二つほどしか知りません。他にも似たような学校もあるでしょうが、それも両手で数え切れる程度のものでしょう。
 ですが、ここで私がエリート教育ないしは教養主義的な教育を考えているとは思っていただきたくありません。何が述べたいのかと申しますとただ以下の二点に関してだけです。
 初めに、教育は被教育者と教育者とは相互的なものであり、ましてや老成とほど遠い、未熟な若い教員は被教育者より教育することにより教育されねばならないということ、二つ目には、教育はそれが生徒、学生、個々人であれ、教室であれ、学校という集団であれ、それぞれが同じだということはあり得ず規律化ないしは画一化には全くそぐわないものであるということ、これら二点です。
 私はかねがね述べてきていますし、これは私の譲れない政治的?な信条とも言ってかまわないものですが、教育はあくまでプライベートなものであり、パブリックなものではないということです。
 私は公教育、この場合政府が徴税により維持運用する学校組織、制度であるが、は不要であるばかりか、害悪ばかりで用済みの制度であると考えます。

  • 教育権はまず第一に親権に帰すべきものであり、また同時に親権は神権に基礎付けられねば成立しないということ

 まず、第一にこれは我国の憲法においても明確に定められている事柄ですが、教育は親権、つまり両親、家族にまず第一に関わる事柄だということです。家族、というよりもむしろ男女の生殖に基づいたつながりが、社会の最小単位であることは、それに対して批判的であるか否かはともかくとして多くの社会学者、また政治学者の認めることでしょう。古典ギリシアアリストテレスも彼の『政治学』の冒頭において、社会を描くにあたり、異性の生殖による結合から説き起こしていることからも明らかでしょう。
 教育とそして養育は基本的には、これはよほど例外的でなければ、家族という最小の社会の中でおこなわれます。ここで重要なのは、子どもの有無が社会を成立さすか否かには関わらない点です。男女二名のつながり、この場合家族を社会として考察するが他にも人間が二人以上何らかの価値、目的により結合すれば社会であると言い得る、が家族という社会を形成する際の最低限の条件であり、子供はそれが両親から生物的な意味で産み出されたにしろ、家族という社会にとっては全くのよそ者、つまり新たに加わる赤の他人ということです。教育の本質的な前提がここに見出せます。教育とは新たな社会成員に対して行われるものであり、教育を施すべき被教育者に対して教育者が与えるのは繋がりと糧の両方である。家族の一員としての地位、つまり子どもという家族においての新たな結合とその子ども自体を維持するための糧を両親は与える。ここで重要なのは生物的な意味での身体(body)と社会的な意味での身体(property)は明確に分けられるのであるが、どちらか一方を欠いても教育はその役割を果さないということです。

    • 生殺与奪権とbodyおよびpropertyの区別に関して

 古来より、この場合古来においては親権とは家父長の権であったのは我国でも古くはそうであったし、古代のギリシア、ローマにおいても程度の差や細かな例外的な規定を考慮するにしろそうであったものです。この場合、古来の家父長の権、つまり親権と現代の近代民主主義社会で定められあたり前だと思われている親権との大きな隔たりが、生殺与奪権に求めることができると思います。
 生殺与奪権とは端的に述べるなら、その子の生死を家父長が決定してかまわず、またより積極的にその子の死をも定めることのできる権利というものです。現代においてはこんな野蛮で、また時代錯誤も甚だしい権利は放棄されてしかるべきだとナイーブに述べることはできるかもしれませんが、こう前置きをして私はヒューマニズムの偽善性をあげつらうつもりはここではありません、ですが、このような(仮に)野蛮な権利が放棄されたにしろ、現在においても古代においても変わらず、子供は親に生存のために多くのものを依存しているという現実が変化していない以上、もし仮にこれが変化しうるのならばそれこそ草食動物の子どもの多くが生まれてすぐであれ、その生存のための機能を一通り備えているかのような変化が人間において生物学的な意味で起こらない限りは変わらないものでしょう、今もなお親、つまりこの場合父権ではなく両親の親権に生殺与奪の権は消極的に残されていると考えるべきでしょう。この生殺与奪権の消極的な行使はいたるところで見出すことができますが、私はここで個別の憤慨すべき事例や、同情を禁じえない事例を個別具体的に扱いたいわけではありません、親が現代でも消極的であるとはいえ、生殺与奪権を保持し、行使しうる事実が教育に関連してどのような意味を持つのかを考察したいのです。
 *まだ途中です*