物語と批評  リアリティとフィクション

 元々科学や法律などに興味があり、小説などまともに読まず、読むならノンフィクションかエッセーなどであったわたしが熱心に読み続けた唯一の物語が『聖書』だった。その点、恵まれていると言えば恵まれているし、不幸と言えば不幸なのかもしれない。私は昔から人の創った虚構であるフィクションに死ぬほど嫌悪を抱く人間で小説などは気休め、現実逃避、害悪以外の何物でもない、これは今でもそう考えている。
『聖書』を私は三冊持っている。これは前に書こうとしたエントリーの続きにもなるのだけれど、すべてもらい物である。一冊目は幼稚園の卒業の折に、二冊目は中学校の入学の折に、三冊目は洗礼の折に、すべて人からもらった。一冊目は一ページもめくらなかった。ただアルバムの隣に鎮座するのみ。二冊目は六年かけて熱心に読んだ。それこそ一通り。三冊目、まだ読んでる、多分棺桶まで連れて行く。
 どうして、こんなにも熱心にフィクションの権化のような書物を熱心に読んだのか、また読み続けているのか考えてみるのは私の糧にもなるし、他の人の糧にも多分なると思う。

  • THE BOOK of books

 まず、The Bookと言った際の本について考えていくのだけど、この本について私は所謂私の先生達のような方法論を採用する気はさらさらないと言うことを先に書いておく必要がある。つまり、これはあくまで感想文に過ぎない。悪いけど批評がしたけりゃ聖書学でも何でもその手の本で勉強してください。遠慮なく言うけど私は批評嫌いです。

    • 現実への虚構の挿入
    • 虚構への現実の挿入
  • どのようにこの本を読み始めたか

 愛着のある本に関して話し始めると長くなるのが世の常かとは思いますが、私の場合幼稚園の頃からだから死ぬほど長くなる。それこそ物心つく前からのお話。
 これは長くなるから人に全部全部話したことのないことだけどよい機会だからなるだけ初めから書いてみる。その代わり時間が足りなくて尻切れトンボになる可能性が非常に高いけど。
 一冊目の聖書くれたのは通っていた幼稚園、今でこそある程度知識がついたからわかるけど、福音派の教会が母体の幼稚園だった。当時は当然聖書なんて読むことなかった。ただ、覚えてるのは食前と食後にお祈りした気がするのと、クリスマスの劇で私は東方の三博士の一人の役のはずが風邪をこじらせて結局出ることができずおお泣きしたことぐらい。
 さらにその幼稚園に入る前に良くわかんないけどYMCAの活動に参加してた。と言っても、遠足に親子で行ったり、絵を描いたりとか、要するに幼稚園就学前の親子の集まりみたいなもの。あとになって疑問を感じて母親にどうやって幼稚園選んだりしたんだとたずねたら、当時流行の自由保育とやらをやっていたので評判のよかったところを選んだとのこと。
 問題はその当時のつまり物心が文字道理つく前の経験が今の私の信仰に影響しているか否かと言うこと。これは一つの問題を考えるときに非常に重要になってくる。
 端的に記すと「幼児洗礼」に関しての問題となる。もう少し大きな概念に回収するならば「自由意志」の問題になる。ここで、長々と自由意志についてここで議論するつもりもないし、幼児洗礼と成人洗礼をめぐる問題を教会史、教義の面からどうこう論ずるつもりもまたない。ただ、私が親となったときどうするかという問いに対していくらかでも考えるだけである。