文藝批評について 昨日の続き

 先日、遠藤周作の読み直しについて記したのだが、いくらか気に障ることがあったので文藝批評について若干書いておこうと思う。まずもって私が手にしたことのある文学批評に関しての書籍はどれも非専門的であるとの批判を受けかねないしろものである。学生と読む『三四郎』 (新潮選書)批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)であり、最後に加えてよいものか悩んでしまうが文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)である。
 どれも之も専門書と言うにはあまりにお粗末であろう。一般教養の講義を秋に取ったが、講義が面白い面白くない以前の問題として小説を全く読めないという昔年の悪習が祟り単位の修得には至らなかった。であるが、今年もまた懲りずに履修登録をしたわけである。今度ばかしはきちんと単位を取りたいのだが、うまくいくかどうかは不明である。なお以前の失敗を反省するのだが本より哲学肌の人間がおセンチな文学青年に合わそうとしたのが間違えであった。無遠慮、無愛想にどれか気に入った批評理論を得た上で可能であろうと不可能であろうとそれが学問的なものであろうとなかろうと哲学をするとき同様その理論で遊べばよいのだ。
 なお私は人文系の学生に多く見られる個人的な興味関心ゆえの学問なるものが全く理解できない。特に文学青年、文学少女的な学問への憧れや崇拝と言ったようなものは不機嫌の元ですらある。私の小説嫌いは中学受験の頃からのものであり、またこれは受験が原因ではなく元々小説なるものが不快なのにそれを試験に合格するためにイヤでも読まねばならなかったのが不愉快で仕方がなかっただけである。
 当時より評論文、批評文の類を試験で読むのは得意であったし、別に他人に試験されるされないに関わらず好んでいた。端的に言ってできの悪いフィクションなど焼こうが煮て喰おうが好きにすればよいと考えている。
 言い換えるなら文学はまどろっこしいのだ。愛について語りたいのならば延々と技巧をこらした戯曲より哲学の端的で明瞭な定義を好むということだ。文学を哲学的思弁に耐えれない者への代用品程度にしか考えぬのは冒涜であろうか。文学が仮に芸術の一分野としての文芸であるならば冒涜になるであろうが、学問としての文学は所詮哲学の劣化品でしかないとの批判は冒涜でなく正当なものであると私は信じる。
 そもそも他人の記した字面に全面的に依拠して何か語るのは不遜ではなかろうか。これは無論哲学者にも向けられるべき言葉ではあるが、文学者は二重の引用を行うが故に、それは批評理論としての哲学と作家の作品の二つである、哲学者に対しての批判と芸術品を造り手でもないのに批評する人間が負わされる特有の批判を負わざるえなくなる。 
 私はまるで選美眼を持たない者だと思うので音楽や絵画同様小説を論ずるなどとても怖くてできない。哲学はそれを学ぶ限り必要なのは誰にでも備わる良識と若干の勇気と滑稽さ、最後に一番重要なのが忍耐であると学んだし、私にはいくらかその素養が備わっていると考えるので別に哲学を成すことに苦労を感じないし、恐れもない。
 フィクションとノンフィクションとの違いと言うものがそもそも本屋や図書館、図書室にあることに私はかねがね疑問を感じていた。かなり意地悪な提題になるであろうけど、聖書はフィクションとノンフィクションの二文法で整理するならどちらに収まるのであろうか?私はこれ以上は書かない。聖書学に片足を突っ込むなんてごめん被りたいからだ。
 それは兎も角として、仮にノンフィクションが何らかの事実を、つまり書き手の外にあるものを記すもので、フィクションが書き手のうちにあるものを記すとするならば、前者は一つの嘘をつき他の事実を描こうとするものであり、後者はただ一つの事実のために数多の嘘をもって描こうとするものと言えるだろう。
 文藝批評家の役割があるとするならば作家が嘘をついて示したかった事実を読者の前に明らかにすることであろう。決して作者の嘘に批評家の嘘を塗り重ねることではない。