黒い給仕と白い給仕

 私の書くものがあまりに手厳しいとの意見を度々頂く。そのつもりでやってはいないので認識の相違だとしか言いようがないのだが、何故そのように取られるのかは考慮が必要だと感じる。
 まず一つに私の物言いや書き方が理知的すぎるとの批判がある。これは私の個々の発言が常に理知的であるという評価では当然あるわけではない。そもそも理知的すぎるというのが批判として使われる理由が理解できかねるのだが、次のようなことを幾たびも言われる。
 幼児洗礼の方から私が成人洗礼であるから、自分で信仰を選んで凄いであるとか、羨ましいであるとか、成人洗礼だからよく勉強している、それに対して私は幼児洗礼だから全然勉強していないであるとか・・・私はこのような発言を聞くたびになんとも言えない複雑な感情を抱く。
 まず第一に何時洗礼を受けようが、この場合幼児洗礼であろうと臨終洗礼であろうと、洗礼の恵みは恵みであってこれは選ぶものでも手に入れるものでもなく神から与えられる恵みである。故に選んだというのは語弊のある表現である。もう一つは個々人の要理に対しての理解や知識、またその他の見識は個々人に属すものであり、またそれぞれのタラントに応じてのものである。故に之もまた洗礼を受けたのが幼児であるか成人であるかは全く関係のないことである。
 幼児洗礼の難しさについてやまた年齢、また理性の発達に即しての要理の理解を即す役割はまずもって幼児に洗礼を授けることを強く望んだ両親及びその執行を行った聖務者がまず第一に負うべきものである。家庭においての幼児の知的、霊的な教育は婚姻の秘跡を通して両親からその養う子女になされるものであり、この働きにおいては聖務者及び教役者は補助的役割を負うだけである。両親の(私が耳にする限り母親が非常に多い)が祈る姿を通して神へ向き合うことを倣う(習うではない)姿勢は残念ながらどのような聖務者も教役者も代わりを務めることが困難な事柄である。
 この点を思うに、私は次のように考える。私は貴方と同じように父である神に招かれ祝福されました。ですが、貴方は天の父同様に地においても貴方の父母に祝福されたのです。その点私は貴方を非常に羨ましく思いますと。
 この婚姻の秘跡による恵みは強固で強靭でありそれが揺らぐことはまず無い。であるが、それではなぜに幼児期に洗礼を受けた人から私が上記の発言を受けるのかの答えにはならないであろう。
 私は幼児洗礼を受けた人からの意見を二つの型に要約できると考える。一つは教会を自らの意志で離れる人の意見、もう一つは残る人の意見である。まず双方の相違を話す前に共通点についての話をする。まず双方に共通するのは上記に記したように家族を通しての信仰体験である。その多くが祈る姿と言うフレーズで語られる。そしてもう一つは物心ついた頃から始まる違和感とアイデンティティー形成に際しての葛藤体験である。アイデンティティークライシスは誰しも多かれ少なかれ感じるものであり、この際に自らの信仰やまた家族の信仰や教会の信仰、それぞれで葛藤が起こることは容易に想像できるが、その内容、内的な構造は残念ながら容易には想像できないものである。
 アイデンティティアイデンティティであるが故に類型化したり、他人が記述できるものではない。常に一人称で自ら記されるものであって三人称で語られるものではない。しかしながら対話、対峙、二人称で応ずることができる。しかし、それは会話であり(それが話し言葉であろうと書き言葉であろうと)私信であり公において成されるものではない。
アイデンティティはあくまで個々人の問題であるが信仰は個々人の内面の問題ではない。信仰を内面、また個人の問題と見る向きが現在では大勢を占めている。無論内面と言ってもそれを脳の生理的現象に換言するか、心理学的な問題と捉えるか、単なる文化的習慣とするか、それは様々であるが、形式は兎も角ここでの信仰はあくまで個人のつまりプライベートなものであり、その点個々の嗜好と言ってかまわないものである。
 他の宗教がどうかは知らないが神は外部性をもち又人格性を有する他者として存在する。つまり、信仰は個々の内面から沸き起こるものであると仮にしても、つまりいかに信仰心が深くても人は人であり、被造物は被造物である。造物主は造物主であり、救い主は救い主である。この分かたれた他者性の間に信仰はあり、教会はある。
 私は先ほど信仰は神に与えられるものであると述べましたが、神から与えられたものを『恩寵』と呼びます。そして『恩寵』の表れとして(様々な儀式の形態を取って)『秘跡』があります。まず第一に“原秘跡”としてのイエス・キリストがあり、次いで“根本秘跡”としての教会、そして諸々の秘跡、準秘跡があります。にしてもこれから秘跡論や教会論を行うのはこの場にそぐわないので簡素に記しにとどまりますが、キリスト教と言う枠で問題にされるのはイエス・キリストの理解つまり原秘跡が問題となります。原秘跡とはつまり受難の後、十字架で罪を贖い、復活したイエスが救い主、キリストであると解するか否か、また復活や救済について、必然的にこれらの議論は三位一体論とキリスト論へと収斂しますが、この問いにいかに答えるかが問題とされます。つまり、私はイエスのなり代わりであるとか、メシアだなどと述べる人たちを残念ながらクリスチャンとは呼ばないということです。これらは異端ですらなく異教です。それに対して異端は先ほど述べた復活や救済に関してなど教義(ドグマ)の理解について出立点が同じ(原秘跡であるイエス・キリスト)であるにも関わらず大きく異なる場合が異端となります。神学者ないしは信徒の集団が異端であるとされる恐れが高いのが、聖体についての見解とこれは後に述べますが教皇の首位権と無謬性について、つまり根本秘跡に対しての見解の相違に関するものです。
 次いで問題となるのが教会です。何故あのようなシステマティックな制度を持つ組織が必要なのか、このことは当然疑問になる点ですし、疑問にされるべき点でもあります。
*もう眠くてだめだ。明日の昼ミサに遅れかねないのでここで一端筆を置く。『秘跡論』や『教会論』はかなりコアなイシューなので私の筆もおぼつかないものがある。どの分野でもそうだけれど。正直いっぺん学問としての神学は兎も角としてカテキズムを集中的に学びたいのだけど、それこそ中高のとき聖書をマンツーマンで学んで感じた疑問を遠慮なくびしびしやる感じで。正直私は倫理神学や聖書学は一番最後でよいと考えてる。まずもってやるべきはカテキズムの再度の、これはつまりスコラ学を土台としながらのより突っ込んだ考察で、その考察からそれぞれ教義や秘跡論、教会論などの組織神学をやるのが先じゃなかろうか。ある聖書学の教員が講義の際に学生から信仰を前提としない聖書の解釈ってどうなんでしょうと聞かれ、蟲のいどころでも悪かったのか、聖書の解釈に信仰のない解釈などあるか馬鹿もんと応じたらしいが、私からしたらその信仰に基づく解釈も信仰に対しての理解がおぼつかなければ聖書学も何もなかろうと思う。聖書を読む前にその解釈の前提となる信仰理解がどうであるのかある程度つめないことにはそれこそ信仰のない聖書理解になってしまう。というかほんとうちの学部はカリキュラムに関してほんと考えを改めるべき点が多々あるように感じる。