同人と文化について

 こうしてブログを書いたりしてきてるのだけど、元々は浪人一年目の勉強記録として始めたのが元でした。それからかれこれ引越しをして4年目になるのかな。筆まめといえば筆まめ。それ以前に何か物を書かなかったのかといえば実は書いててパソコンを買ったのが中学三年生のときでその頃からエッセイだか評論なんだか分からないものを書いては消し、書いては消しとしてはいました。当時はまだブログもなくホームページの開設もしようとしたけれど面倒でやめて中高と文藝部は熱心に文芸誌を作っていたけど、私は文学が当時より苦手でやりたかったのは社会批評だとか当時は人文科学というより社会科学・・・ついでに言うと今も昔も中高では理系の友人が多かった。文藝をやってる子達とも図書委員とか(王道すぎる)文化祭実行委員やら挙句生徒会とかで仲良くつるんでいたけど正直どうも合わなかった。大学も元々は国際政治と言う分野を選ぶつもりだったのだけどそれがどうしたのか人文系の王道だった(過去形とは思わないけど周りの認識は過去形なので仕方なくこう書く)神学なんてやってる。なお私の人文系嫌いはこの頃の屈折した重いが原因と言えば原因だけど、それより以前から小説やら嫌いだったしな・・・根が深いのでどうにもならない気がする。
 それは兎も角、でも羨ましかったという思いはある。興味関心やらが同じで物書いてそれまとめて形にするのは素敵なことだし何より楽しそうだった。今年実家に帰ったら折角買ってたその文芸誌全部引越しの際に捨てられてて激しく凹んだ。
 正直な話すると今でも同人やってる人が私は羨ましい。それがどんな分野であってもいいなーと思う。私の興味のある分野の同人誌ってそもそも一冊も現時点ではないだろうし、論壇誌もなんもないもの。あるのは大学の紀要のみ。読んでるけど、クソつまらんし、クソくだらん。でも数十年前に同じようにゼロから始めた人がいるのを知ったので何とか私もやりたいと思う。始めはうまく形にならないだろうし、不満や不手際が沢山あるだろうけど何とか続けて行きたいと思う。
 と言うわけでwebの読者の皆様には以前にもやるやると言っていましたが、今日がオフレコではないパブリックな正式な発言です。カトリック論壇誌を2011年の文学フリマの春/秋の二号(イースター/クリスマス)として出すために準備を始めていきたいと思います。
 本誌は岩下壮一が学生有志と初めた同人誌に倣うものでありまたその流れを引き継ぎ日本の文化に対してカトリックの立場より貢献することを目的とします。本誌公刊に当たっては『カトリック』を引き継ぎ戦後に公刊された『世紀』をさらに引き継ぐ形での公刊を望みますが1994年の段階で上智大学内の世紀編集室が活動をしていないため『世紀』の版権その他がどのようになっているかいまだ不明の点が多数あります。なお以前『世紀』は1994年で廃刊と私は記しましたが休刊であるとの情報もあるためまずこの点をはっきりとさせないとなりません。廃刊であるなら巻頭の謝辞その他で十分ですが、休刊であるならきちんとせねばならない点が幾つかあるかと思います。不明な点は準備の過程ではっきりさせるにしろ、本誌の春号、秋号はあくまで同人と言う形で出版したいと考えます。

 端的に述べるならば現在元気に活動してる文化団体、個人が文学批評(この枠が正しいとは思いませんが便宜上このように書く)を中心としていること、つまり受容者、読者として一番有望であり、またこれは書き手の側の問題ですが戦後において広範の読者を獲得し、また影響力のある人物が遠藤周作であり、また本誌が引き継ぐ対象である戦前からのカトリック論壇誌(1948年までをここでは意味し戦後の『世紀』を除く)の系譜の末端に彼がいるからでもあります。遠藤自身初期においては文学批評、主にフランスのカトリック文学から始めた書き手であることも加味し、本誌の創刊は文学の同人会が適当であると考えました。
 創刊号での対象は遠藤の作品批評とともに遠藤が作品で問い続けたことをあらためて現在問うことはどういうことなのか、また暫定的であれカトリックの立場からの解を提示することを目的とします。

  • Q どのような読者を対象とするのか?

 創刊は上記の理由から文藝、文学を主な活動領域とする人たちに対しておこなう事としますが、想定する読者は何らかの文化活動に従事する人たちに対してです。これは創作者、受容者の区別なく読者とすることとします。これではあまりに漠然としているので本誌が力点を置くのはどの読者に対してか具体的に記すと以下のようになります。まず第一に中高生、特に文藝であれ芸術であれ科学であれ哲学であれ法学であれなんであれこの時期から学術的なことに関心を持つ学生に対してです。これは本誌の目的を日本の文化に対して貢献することとしたからには文化の基礎となる学生・生徒が第一の読者であると考えるからです。多くの論壇誌が、大学生以上を読者として第一と規定し、中高生についてはませた早熟な学生が読むかも知れないという態度をとるようですが本誌はそのような立場をとるつもりはありません。しかしながら本誌が「14歳から始める〜」のような軽薄さに堕するつもりは毛頭ありません。まず第一に14,15の生徒であっても自然理性は十分備わっているのも関わらず学校教育においてもまた論壇誌においても彼ら、彼女らに対して必要な理性の糧を用意する存在が不足しているとの認識から本誌はまず第一に中高生を主要な読者として扱います。書き手及び編集者は彼ら、彼女らに対して必要十分な自然理性を持つ一人格として臨みます。
 また次いで想定する読者は大学の学生、研究者に対してです。本誌の目的としてカトリックの立場からの貢献とありますが本誌は様々な学問領域に対して知的な誠実さをもって神学、カトリシズムと他の分野との橋渡しとなることでこの目的を達成しようと考えます。できうるならば、あまりに初歩的な知識の混同や“無知に”基づく誤解や無理解を避けたいと考えるからです。また様々の場面で『普遍』がキーフレーズとして00年代においては議論されているようですが、新しい一年に創刊する本誌は『カトリック/普遍』を長らく名乗り続け、それを基底価値とする立場から現代の日本において『カトリック(普遍)』の立場からどのような『普遍』が論じうるか試みるものでもあります。
 最後に、教会の兄弟、姉妹の皆様また様々な聖務職につく方々に。本誌の目的は第二バチカン公会議以降強調される『インカルチュレーション』『現代化』に対しての一つの試みとしておこなうものです。またここで交流の対象とするのは今までのように派は違うが同じキリスト者であるプロテスタントでも超越的なものを仰ぎ見る他の宗教者でもありません。無論これらの方達を読者からもまた書き手からも締め出すものではありませんが、本誌での目的は岩下壮一が吉満義彦が問題とした神なき人間である近代人に対して「大きな物語が失われた」中での救いと普遍が問題となるポスト・モダンの人間に対して『カトリック(普遍)』と名乗り、救いの知らせを伝える役割を負った人間がいかに神なき人間の問いと求めに答えれるかの試みでもあります。

  • Q 書き手について

 前後してしまいましたが本誌は『Meditationes』と冠して創刊することとします。タイトルの『Meditationes』はデカルトの『Meditationes de Prima Philosophia』から『Meditationes』としました。デカルトの書籍は『省察』との訳で広く知られていますが、ラテン語の『meditationes』はカトリック教会の文脈では『黙想』という訳を与えることも可能な語です。黙想についてここでは詳しく述べることとはしませんが、祈りの一つの形としてここでは解してください。当然meditorには、黙想する、思念する、考察する、瞑想するなどがラテン語の辞書を引けば出てきます。この語をタイトルに選んだのは無論デカルトの『省察』を意識してのことです。神なき近代人の先駆とも言われるデカルトの『省察』に記される神の存在証明・・・『Meditationes』がデカルトの懐疑に倣っての真摯な理性の立場とカトリックの祈りである黙想の交わる場、理性と祈りの交錯点に本誌がなることを望んでタイトルとしました。
 ここで神と言う語がご不満ならばこの語を普遍に置きかえてくださればと思います。普遍を望みつつそれを徹底的に懐疑する。また普遍を疑っていながら普遍を主張する。ですのでデカルトの書いた『第一哲学(形而上学)についての考察/瞑想』ではありませんが本誌は『Meditationes de Catholica Philosophia』を主たるテーマ、基底において始められるものです。書き手に求めるのは普遍に対しての考察、論考です。それは時としてカトリックの立場から(カトリシズム)、無神論の立場からの普遍、東洋的汎神論からの普遍、自由主義からの普遍、科学者からの普遍etcとなるでしょう。
 

  • どうでもよい私信に近いもの

 今年の残りと来年については今従事している活動に全力で取り組むので安心してください。ですが、正直な話現在の活動では様々な点で限界を迎えていることを感じます。再来年とできたら次の年も上記同人誌のために時間を当てたいと思います。アカデミックな論考、研究に集中すべきだとの意見もあるかとは思いますが、それを広範に展開するための綜合文芸誌、論壇誌を放置し続けたつけを誰かがいつかはそれもなるべく早めに返さねばならない現状は変わらないわけで力量が足らないだろとの批判は甘んじて受けますが、私が行っていこうと思います。