不信と信心のあいだ

 信者も不信仰者も自分自身や人間存在の真実の前から逃避しないかぎりそれぞれのしかたで、懐疑と信仰とを分担しているのである。懐疑や信仰から全く逃避できるものはだれもいない。あるものにとっては、懐疑に対立して信仰があり、またある人にとっては懐疑を通して懐疑という形で信仰があるわけである。人間の運命の原姿として懐疑と信仰、試練と確実性とのこの果てしなき競争の中においてのみ人間生存の終局性はみいだせるのである。多分、両者を自分だけの世界に密閉されてしまうことを防いでくれる懐疑が情報伝達の場となされるのはまさにこうしてなのである。懐疑は、両者が完全な自己満足にやすらぐことを防ぎ、信者を懐疑者に対し、懐疑者を信者に対してけいしかけ、信者には不信仰者の運命を分担させ、不信仰者にはそれでも信仰は自分への挑戦だとしらせる形式なのである。pp6-7『キリスト教入門』ヨゼフ・ラッチンガー

 それがどような形であれ、懐疑と言うよりも疑問や疑念に対して答える義務を信じる私は持つ。