結局のところ
愚痴である。えらそうなことを書いておきながら、ですが上のエントリは何度かに分けて書きます。大筋としてはケーベルが明治34年に帝大生向けに述べた「神学及中古哲学研究の必要」から初めて岩下壮一の「中世哲学思想史研究」を主に扱いながら所謂京都学派の哲学をつまみ食いしつつ、今、このとき神学を特にカトリックの神学を研究する必要があるのか、またあるならどこにあるのか、そして現状において神学の知見がどの程度またどのように一般で受容されているのか、それを踏まえたうえでどのように神学を取り扱っていけばよいのかを考えて行きます。
以上のことは前々からやろうとしていたことなのでそれに対しての継続の取り組みでよいとして、問題はこのような試みをしている連中がカトリック教会の中に全くいないのである。というか正確にいうと上智大学には誰一人としていない。無論このような試みに近いことをしているご老体が幾人かいるのをしってはいるけど、皆そろいもそろって上智なんかじゃなくて旧帝大の面々なんだよね。情けないったらありゃしない。流石私大文系バカである。教養の欠片もない。
いい加減知的な方面から何か現代に貢献したりアプローチしたりとの動きがあってよいと思うし、あるべきだとも考えてる。私は一人であろうとやっていく。