『日本のイエズス会史 再渡来後1908年から1983年まで』

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  • クルトゥル・ハイム講座

 そのころから、*1毎月「クルトゥル・ハイム(Kultur-Heim)講座」が行なわれ、上智の神父方をはじめ、吉満義彦教授、岩下壮一師その他の講師は神学・哲学・社会学などの問題について講義し、講義後の質疑応答、懇談なども有益なものがあった。これは高島館で行なわれ、その時から高島館はクルトゥル・ハイムと名付けられた。
 各層のカトリック信者も、カトリックでない人も、この「クルトゥル・ハイムの晩」(クルトゥル・ハイム・アーベンド)に参加し、上智の学生はもちろん、他大学の学生も多数これに含まれていた。
 この催しの中でエクメニズムの前兆として青山学院の比屋根安定教授の講座が記念すべきものであった。教授はプロテスタントの友人、知人を同伴して、ここで日本人の宗教心について講義した。キリシタン史を研究して自らスペインのザビエル城を訪れ、聖フランシスコ・ザビエルに対する尊敬と親しみを抱いていた。

 そのころまた、「カトリック学生会」は結成され、次第に盛んになっていった。学生会の定例の催しとして、毎月一回、日曜日に上智のクルトゥル・ハイム聖堂において「Missa Dialogata」が行なわれた。ミサ後、クルトゥル・ハイムの一階で朝の食事に集まり、兄弟的交わりを深めた。この朝の食事は「アガペ」と呼ばれた。集まった学生の総数はほぼ三〇名であり、カトリックの先生方も(戸川敬一先生など)よくこれに参加した。
 また一九三七年の秋、布教の日曜日にはマレラ教皇使節はこの「Missa Dialogata」を司式し、学生の集まりにも出席し、かれらの熱心さをほめ、その活動を激励した。
 一九三八年の五月には、東京初代邦人大司教、土井辰雄師が、学生会のMissaを司式し、導きのことばを与えた。学生会の旗もつくられ、祝別された。

  • 聖母会

 カトリック学生会と平行して、学生たちの信仰生活を深めるために「聖母会」(Congregatio Mariana)も創設され、ハインリッヒ・デュモリン(Heinrich Dumoulin)師の指導の下に、祈り、黙想、その他の種々の集まりを通して有益な活動を行なった。聖母会の中からは、多くの召出しがあり、最初の韓国人イエズス会員トビアス金太寛師もメンバーのひとりであった。
 聖母会の主な集まりのひとつは、上智ガーデンで行なわれた聖母月の集い(Maifeier)であり、夕方、美しく飾られた聖母像の前で、聖歌・聖書朗読、聖母の神秘に関する話がなされ、春の庭の光景が石灯籠の灯で静かに照らされて、浮かびあがった。

  • アロイジオ塾の生活

 彼らの種々の活動の重要な場は「アロイジオ塾」であり、一九三七年から上智大学の学生のみをいれることになった。当時四〇〜五〇人の塾生のうち、半分はカトリック信者であり、家庭的雰囲気の中で、カトリック学生とカトリックでない学生が共同生活を送った。毎木曜日の共同の夕食ののちに行なわれた「Lieder-Abend」(うたの晩)で、その家庭的精神が養われた。毎年聖アロイジオの日に、塾際が盛大に行なわれた。上智大学教授高橋憲一先生、東和商事の竹内巽氏、後にイエズス会に入った大国武夫修練者金師、鎌田武夫師(当時広島教区)、および京都の丸山師、岡師などが当時のカトリック塾生の中で大いに活躍していた。
 また、塾生の中には数人の朝鮮人学生がいた。朝鮮の司教方は、神学校志願者を上智大学予科へ送り、のちの韓国の初代枢機卿ステファン・キム大司教もそのひとりであった。

 社会事業としては、上智のラサール師によって東京・三河島・町屋に一九三一年に設置された「上智セットルメント」がある。当時、三河島には震災で焼け出された多くの避難民が集まっていた。その中に多くの失業者もあり、生計を立てるべき道を探していた。そこで簡易食堂、子供の家、薬局、保育所、診療所などができ、多くの恩人と政府の援助で次第に充実していった。
 日本と外国からの援助をうけて、適切な建物ができ、一九三四年一二月一六日マレラ教皇使節により祝別された。セットルメントはその後、常に上智大学と密接な関係があった。ラサール師とともにある学生はそこに住み込み、他の学生はそこへ手伝いにゆき、社会福祉事業に関する貴重な経験をした。ラサール師はその後イエズス会のSuperiorになったので、アロイス・ミヘル(Alois Michel)師がそのあとを継いだ。

*1:引用者補足:1930年代